太田述正コラム#1881(2007.7.27)
<張戎達の『マオ』をめぐって(その2)>(2008.1.24公開)
 (3)人間失格的人物毛をめぐって
 しかし、ナタン教授の注意喚起にもかかわらず、そしてまたこの本に細かい欠点がどれほどあろうと、張戎達は、毛が近代史における最大の悪人であった(注3)ことを完膚無きまでに証明したと言ってよいでしょう(
http://books.guardian.co.uk/reviews/biography/0,6121,1499341,00.html
。7月25日アクセス)。
 (注3)ヒットラー(Adolf Hitler)すら犬や子供達にはやさしかったが、毛沢東ときたら、あらゆるものに対し過酷だった。
 そうなると、そんな悪人であった毛沢東、すなわち「人間失格的な毛沢東がどうして権力を握ることができたのか」というナタン教授のもともとの問題提起に戻らざるをえませんが、これについては稿を改めて考察することにしたいと思います(注4)。
 (注4)例えば、2005年当時の英ファイナンシャルタイムス北京支局長のマクレッガー(Richard McGregor)は、毛沢東は支那の皇帝達の伝統的な大衆操作手法も活用したのであって、大衆は決して毛が醸成した恐怖(terror)のせいだけで毛に迎合したわけではないと指摘する(
http://www.howardwfrench.com/archives/2005/06/20/the_inhuman_touch_mao_the_unknown_story/ 
。7月25日アクセス)。
 これと似て非なるのが、「人間失格的な毛沢東がどうして死後30年経ってなお中共のかくも多くの人々に尊敬されているのか」という、西オンタリオ州のチャン(Alfred L. Chan)教授(?)の問題提起(
http://sdcc17.ucsd.edu/~twan/Review%20of%20Chang%20&%20Halliday2.pdf
。7月25日アクセス)です。
 こちらの方は至極単純な話であって、毛沢東を全面的に否定してしまったら、中国共産党による支那支配の根拠が消滅してしまう、というだけのことです。
 だからこそ、トウ小平は毛沢東は70%正しく30%間違っていたと総括したのです(注4)。
 (以上、howardwfrench上掲による。)
 (注4)トウは毛に何度も失脚させられたが、毎回トウを復権させたのも毛だった。
    毛もトウの手腕には一目置いていた一方で、トウも毛への周到なゴマすりを忘れなかった。
    「毛沢東語録」再版の林彪による前書きにある「毛沢東主席は天才的、創造的、全面的にマルクス・レーニン主義を継承、保衛し、発展させた」の「天才的、創造的、全面的」という三つの修飾語句は実は、紅衛兵運動が拡大して彭真北京市長らトウの「同志」への批判が公然化していた1966年にトウがひねり出したものだという。そして69年にまたもや失権し73年に復権したトウは、毛が死亡した1976年から5年経った1981年、毛について、「文化大革命は指導者らが誤って引き起こし、それが反革命集団に利用され、党と国家、各民族人民に巨大な災難をもたらした内乱だった。その主要な責任は毛沢東同志にある・・<しかし、毛の>中国革命における功績は、過ちをはるかに上回る」という評価を打ち出す。
    (以上、
http://www.sankei.co.jp/kokusai/china/070625/chn070625000.htm  
(6月25日アクセス)による。)
 (4)矢吹晋氏による批判
 日本におけるこの本をめぐる論議についても、全般的な紹介を行った上で私の見解をお示しすべきところ、現代支那の専門家を自認しておられる、横浜市立大学名誉教授の矢吹晋(1938年~)氏によるこの本への批判に対する反批判だけにとどめます。
 
 矢吹氏は、この本を評価する日本人の論者を具体的根拠を示さずして軒並み罵倒するとともに、この本を批判するエール大学教授の言を引いてご自分の主張の根拠にされています(注5)(
http://www25.big.jp/~yabuki/2006/toho.mao.htm、  
http://www25.big.jp/~yabuki/2006/ya-mao.pdf  
(どちらも7月25日アクセス )。
 (注5)矢吹氏は、日本軍が実行したとされている1928年の張作霖爆殺は実は、スターリンの命令の下、日本軍の仕業に見せかけて実行されたという張戎達の主張(後述)について、具体的根拠を示さずに批判する一方で、国民党軍の南京上海警備区総司令官であった張治中・・中国共産党の「秘密党員」・・が1937年8月、 スターリンの命令の下、大山中尉殺害事件などを引き起すことによって日本軍の戦線を華中まで拡大させ、日支の全面戦争を導いたとする張戎達の主張については、エール大学スペンス教授によるこの本の批判を援用して批判している。
 これは、自らの労を惜しみ、横文字の権威をふりかざして「無知蒙昧」な日本人を切り捨てる、という昔懐かしい博物館行きの手法です。
 それに、横文字の権威をふりかざすことができるほど矢吹氏は英語に通じておられないようです。
 というのは、矢吹氏によれば、
 ’This assassination is generally attributed to the Japanese, but Russian intelligence sources have recently claimed that it was in fact organized, on Stalin’s orders, by the man later responsible for the death of Trotsky, Naum Etingon, and dressed up as the work of the Japanese.’(PP175)
が邦訳では、
 「張作霖爆殺事件は、一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令に基づいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという」(邦訳上巻301頁)
と訳されているところ、ここは、
 「・・ロシア諜報機関の資料は、実際にはスターリンの命令で組織され、トロツキー暗殺に責任を負うナウム・エイティンゴンによって実行され、日本軍の仕業に見せかけた、と最近主張している」
と訳すべきであり、原文では「主張している」はずのものが訳語では「明らかになった」と確定的な話にすりかわっている点で、これは誤訳であると言わざるをえないというのです。
 ところが、私なら、
 「・・実際にはスターリンの命令に基づいてナウム・エイティンゴン・・後にトロツキー暗殺も担当した・・が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだ、と最近複数のロシアの諜報機関筋は主張している」
と訳します。
 お二人に共通していますが、この場合sourceは、文脈から言って「筋」であって「資料」と訳してはいけませんし、複数なのに単数扱いしているのもこのような場合は不適切です。
 邦訳本の翻訳者は、文脈から言ってRussiaは「ロシア」でなければならないのに「ソ連」と誤って意訳するという間違いも犯しています。
 他方、矢吹氏の訳も、organizedの主語を取り違えたために訳も不適切になった(「組織」X、「計画」○)り、全体として日本語としてこなれていないという点で誉められたものではありません。
 邦訳本の翻訳者の訳と矢吹氏の訳のどちらも、大変できが悪いことがお分かりいただけたでしょうか。
 これらのことは、日本の現在の社会科学の水準が奈辺にあるかも示している、と思われませんか。
(完)