太田述正コラム#13264(2023.1.25)
<大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか』を読む(その1)>(2023.4.22公開)
1 始めに
コラム#13264に記したような経緯で、表記・・但し、副題が、「近代日本の思想水脈」・・を取り上げるシリーズを始めます。
なお、大谷栄一(1968年~)は、東洋大文(印哲)卒、同大博士後期課程修了、同大博士、「公益財団法人国際宗教研究所研究員。2005年、南山宗教文化研究所研究員。2009年、佛教大学社会学部現代社会学科准教授。2016年より教授。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E6%A0%84%E4%B8%80
という人物です。
2 『日蓮主義とはなんだったのか』を読む
「・・・昭和7年(1932)2月16日午後4時、中国東北部の奉天市(現・瀋陽)<でのこと、> この2週間後の3月1日、満州国の建国が内外に公表されるが、その建国準備の会議のために東三省(奉天省・吉林省・黒竜江省)の実力者、、・・・張景惠<(注1)>、馬占山<(注2)等>の四巨頭が浪速通り沿いの東洋拓殖会社ビル内にあった臨時関東軍司令部を訪問し、本庄繁関東軍司令官が彼らを迎えた。
(注1)Chang Ching-hui(1871~1959年)。「青年期に日清戦争が始まると<郷里>近辺も戦場となったため、・・・武装自衛団を組織した。この後、この武装自衛団は馬賊として職業化していき、張作霖に帰順して義兄弟となる。・・・
張作霖爆殺事件<で>、随伴していた張景恵も重傷を負う。・・・
1931年9月に満州事変が勃発すると南京政府と袂を分かち、満州に帰ってしまう。満州に帰った張景恵は、哈爾浜における自らの地盤と奉天派時代からの関東軍とのコネを活かし、黒竜江省省長に就任、次いで1932年2月には東北行政委員会委員長に選ばれ日本軍政に協力した。1932年3月9日に満州国が正式に成立すると、翌10日に参議府議長に任命され、14日には東省特別区長官も兼任した。さらに同年8月3日、満州国国務院軍政部総長を兼務している。
1935年・・・5月21日、前任者の鄭孝胥が日本に反対意見を述べて更迭されたことにより、関東軍の強い推薦によって満州国の二代目国務総理大臣に就任した。
表向きは皇帝の愛新覚羅溥儀に次ぐ満州国のNo.2となったが、同国は関東軍が実質的に支配していたため、政治的実権はほとんどないに等しいものであった。第二次世界大戦中の1943年11月には東京で開かれた大東亜会議には満州国代表として出席した。
1945年8月17日に満州国が崩壊すると、8月20日に張景恵ら満州国要人は行政を崩壊させないためにソ連軍の新京進駐前に「東北暫時治安維持会」を結成するも22日にソ連軍に解散させられ、シベリアに連行された。
1950年に、前年成立した中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収監される。・・・
張景恵<は、>「私は政府に対してとても罪深いことをしたのに、このように手厚く世話をしてくれるとは、考えてもみなかった」と周囲に語っていたという。・・・
六男・・・の張紹紀(改名後、張夢実)は早稲田大学への日本留学の際に東條英機が身元引受人となったが、中国共産党の地下組織にも参加しており、戦後は撫順戦犯管理所の看守になって張景恵と面会して自分と身内への寛大な政府の措置に感謝する自白を引き出している。後に北京国際関係学院の日本語学部主任となる。2004年に中華人民共和国の第7期全国政協委員となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E6%99%AF%E6%81%B5
(注2)ばせんざん(1885~1950年)。「馬賊の出身で,・・・1905・・・年清国軍に入り,辛亥革命後は黒竜江省で騎兵団長などをつとめた。満州事変の起った 1931年,南京政府から黒竜江省主席代理に任命され,日本軍と戦った。 32年日本側につき,3月「満州国」が成立すると軍政部総長となった。しかし,4月黒河に脱出して,また南京政府につき,反満抗日軍を組織し,ゲリラ戦によって日本軍を悩ました。一時日本軍に追われてシベリアへ逃れたが,また帰満して 37年綏遠省で抗日戦を指導した。戦後の国共内戦では初め国民政府についたが,49年共産党軍に寝返った。」
https://kotobank.jp/word/%E9%A6%AC%E5%8D%A0%E5%B1%B1-114559
⇒毛沢東の「漢奸」張景惠に対する、蒋介石なら絶対にしなかったであろう「手厚<い>世話」は、私が指摘してきたところの、毛の杉山らとの長年にわたる協力、があったからこそであることは、お分かりのことと思います。(太田)
そのときに撮影された記念写真が残っている・・・。
出席者たちの背後には、なぜか、「南無妙法蓮華経」と大書された垂れ幕が写っている。・・・
じつは、この日は・・・日蓮・・・の誕生日だった。
この写真が長年にわたり心に沁みついて離れず、満州国建国と南無妙法蓮華経がどうかかわるのか、満州事変とはいったい何だったのかに疑問を抱きつづけたのが、直木賞作家の寺内大吉(本名・成田有恒、1921~2008)である。
寺内は浄土宗の僧籍をもち、浄土宗の宗務総長も務めた人物だが、戦時中の大正大学在学中にこの写真を目にする。
やがて寺内は、『化城の昭和史–二・二六事件への道と日蓮主義者』と題する小説を<書く。>・・・
寺内が登場人物として取り上げている日蓮主義者とは、・・・北一輝と・・・石原莞爾、・・・井上日召、五・一五事件に関与した海軍軍人、二・二六事件に参加した陸軍の磯部浅一、村中孝次、香田清貞、安藤輝三らである。
さらに日蓮会殉教衆青年党(いわゆる「死なう団」<(注3)>)の江川桜堂、新興仏教青年同盟の妹尾喜郎<(注4)>、・・・宮沢賢治、そして・・・田中智学と顕本法華宗管長の本多日生も登場する。・・・
(注3)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E3%81%AE%E3%81%86%E5%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(注4)せのおぎろう(1889~1961年)。「肺病等で旧制一高休学<。>・・・1918年本多日生が主宰する法華団体統一団に参加する。翌1919年には統一団の青年信者を中心に、大日本日蓮主義青年団を組織し、機関誌の発行や各地への講演などを精力的に行っている。青年団活動の中で、やがて小作争議や労働争議などにかかわるようになり、社会変革の必要性を説くようになる。
1931年日蓮主義青年団は、妹尾の主導の元、超宗派の新興仏教青年同盟に発展解消。4月5日に開かれた結成大会で、妹尾は初代委員長に選出される。新興仏青はその綱領に「釈迦の鑚仰と仏国土建設」「既成宗団の排撃」「資本主義経済組織の革正と当来社会の実現」などをかかげ、労働運動、消費組合運動、反戦反ファッショなどの活動にかかわっていった。しかし戦時色の強まった1936年2月に特高警察に妹尾は検挙される。1か月後に釈放されるも、同年12月には再度検挙され、治安維持法違反で実刑判決を受け、1940年12月に入獄した。
戦後は、仏教社会同盟委員長、平和推進国民会議議長、日中友好協会東京都連会長などをつとめた。1959年には日本共産党に入党した<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%B9%E5%B0%BE%E7%BE%A9%E9%83%8E
ちなみに先の写真の「南無妙法蓮華経」は、石原によって掲げられたのではないかと、寺内は推測している(私もそう考える)。・・・
『化城の昭和史』・・・<の>「あとがきにかえて」のなかで・・・寺内<は、「>・・・極右テロリズムから左翼の守備範囲へまで浸潤できる日蓮思想とは何だったのか。書き終えて、なおぼくは考え続けていなければならなかった。<」と>・・・述懐している<。>・・・
本書は、寺内のこの問いを引き受けたいと思う。・・・
本書は、<寺内の本のような>・・・フィクションで<はなく、>・・・日蓮主義からみた・・・実証的な社会学的アプローチによ<る>・・・日本近代史研究である。」(10~13)
⇒大谷栄一は、明治以降の、下からの日蓮主義に着目しているところ、私は、秀吉以降の(明治以降も含む)上からの日蓮主義に着目しているわけであり、以後、この二つの日蓮主義を区別するために、前者を小日蓮主義、後者を大日蓮主義と呼ぶことにします。
もとより、この大小に価値ないし意義の大小の含意はありません。(太田)
(続く)