太田述正コラム#13266(2023.1.26)
<大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか』を読む(その2)>(2023.4.23公開)
「・・・「日蓮主義(Nichirenism)」という言葉は、・・・在家仏教教団・国柱会の田中智学によって、明治34年(1901)に造語された。・・・
<そして、>高名な文芸評論家の高山樗牛<(注5)>(1871~1902)・・・による・・・智学<の>・・・論考<への高い>・・・評価が、「日蓮主義」という言葉が広まるきっかけとなった。」(13~14)
(注5)1871~1902年。庄内藩士の子。二高、東大文(哲学)卒、二高教授、博文館の『太陽』編集主幹、東大講師、田中智学の影響を受ける。論文博士(文学。東大)。墓所は静岡県静岡の日蓮宗の龍華寺。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E6%A8%97%E7%89%9B
「日清戦争後,井上哲二郎らとともに日本主義を唱え『日本主義』を『太陽』に掲載。ニーチェの死に際し大いに感化を受けニーチェ主義を主張した。 1902年文学博士となり,晩年は日蓮に傾倒。」
https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E6%A8%97%E7%89%9B-18632
智学をはじめ、顕本法華宗の本多日生<(注6)>や日蓮宗の異端児・清水梁山<(注7)>らの日蓮主義者の著作や活動によって、日蓮主義は明治末から大正期にかけての日本社会で流行思想となる。
(注6)にっしょう(1867~1931年)。姫路藩士の子。小学校卒業後、日蓮宗で得度、重職に任命後、「1887年(明治20年)、上京後に私立哲学館(現・東洋大学)の第一期生として入学する。哲学館在学中、日生は井上円了やドイツの哲学者・エドゥアルト・フォン・ハルトマンの著書など西洋哲学を広く学び、生涯に渡って深い影響を及ぼした。
1884年(明治17年)以降、明治政府のもと仏教各宗派の教団近代化が始まり、日蓮宗妙満寺派にいた日生は革新派として近代化の体制整備に奔走し、1889年(明治22年)、24歳の若さにして妙満寺派教学部長に就任する。しかし、日生の革新的な宗制改革は、宗内の守旧派から反発を呼び、保守派の錦織日航が管長に就任すると、1891年(明治24年)、教学部長を罷免される。日生に対する守旧派の処分は続き、福島県二本松の蓮華寺への左遷命令を拒否した日生に対して1892年(明治23年)、僧籍剥奪処分が下る。
以後、日生は「顕本法華宗義弘通所」を設立して独自の布教活動を始める。宗内での盛んな日生復権運動の結果、1894年(明治27年)、宗門は「仏教各宗綱要」の日生への執筆依頼のために僧籍を復権。それと同時に、かねてから構想していた日蓮門下統合に向けて僧俗を問わずに運動を展開する拠点として「統一団」を結成する。団報「統一」を発刊し、現在までその活動は継続されている。日生は宗門の宗務総監に就任した後、日蓮宗妙満寺派を正式に「顕本法華宗」とする公称許可を得て、1905年(明治38年)、39歳で顕本法華宗管長に就任した。
以後21年間、同職を務める中、1909年(明治42年)には以前からライフワークとしていた僧俗一体の布教伝道、社会教化、門下統合の拠点とするため「天晴会」を組織、佐藤鉄太郎海軍中将、小笠原長生子爵などの有力軍人、政治家、名士たちが名を連ねた。関連団体として、各地で頻発する労働争議に対応するための労働者・勤労者を中心とした「自慶会」や、共産主義、無政府主義に対抗するための政治運動拠点として「知法思国会」も組織し、幅広い分野での日蓮主義伝道活動に務めた。1922年(大正11年)、広く日蓮門下に呼びかけ宗祖・日蓮大聖人の「立正大師号追諡」を実現させる。以後日生は宗祖を一貫して「立正大師」と呼称し続けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E6%97%A5%E7%94%9F
(注7)りょうざん(1864~1928年)。
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/310951.html
「天皇本尊論<は、>・・・清水梁山氏がその著『日本の国体と日蓮上人』の中で、本尊を以て日本国の天皇を示し、戒壇を以て日本国の天治を立て、題目を以て日本国の天法を明らかにす」と述べたことより、その端を発したのではないかと思われる。」
https://genshu.nichiren.or.jp/genshu-web-tools/media.php?file=/media/shoho29-13.pdf&type=G&prt=4159
『日本の国体と日蓮上人』は、『王仏一乗論 : 日本の国体と日蓮聖人ノ別名』(明44.8)
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/785482.html
の誤りではないか。
⇒大谷は、第二章(71~95)全体を本多日生に充てていますが、私は、「注6」の形での本多の紹介に留めておきたいと思います。
宗教者としての日蓮が唱えた教義をカトリック日蓮宗とすれば、本多日生が唱えた教義はプロテスタント日蓮宗で、田中智学が唱えた教義は無教会派日蓮宗だった、というのが私の取敢えずの認識です。
そして、本多日生や田中智学の教義の政治/社会運動部分が、私の言う、小日蓮主義である、ということになるでしょうか。
大日蓮主義については、後ほど・・。(太田)
(続く)