太田述正コラム#13284(2023.2.4)
<大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか』を読む(その11)>(2023.5.2公開)
「・・・賢治は・・・<大正3年>の9月、(石原も手にした)島地大等編「漢和対照妙法蓮華経」(明治書院、1914年)に出会う。
弟の清六の証言によれば、賢治はとくに如来寿量品に感動して、驚喜して身体がふるえて止まらなかったという。・・・
<その>第十六(とくに自我偈の箇所)<であ>る。・・・
衆生劫尽きて 大火に焼かるると見る時も・・・
我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり・・・
この自我偈の一節は、現実の娑婆世界(国土)の本質を永遠の理想世界(本国土=常寂光土)と捉える娑婆即寂光という天台教学上の教説の根拠となる箇所である。・・・
賢治18歳のときである。
賢治は亡くなるまで『法華経』をつねに手元に置いて大切にし、法華信者としてその生涯をまっとうした。・・・
<但し、>大平宏龍<(注39)>によれば、賢治<は>天台的法華経観<から>日蓮的法華経<へと>・・・大正7年(1918)ころ・・・傾斜した<。>・・・
(注39)こうりょう(1943年~)。「早稲田大学第一文学部東洋哲学専修卒。同大学院文学研究科修士課程修了。法華宗興隆学林研究科卒。現在、興隆学林専門学校校長。法華宗教学研究所所長。法華宗国祐寺住職。」
https://www.php.co.jp/fun/people/person.php?name=%E5%A4%A7%E5%B9%B3%E5%AE%8F%E9%BE%8D
国祐寺は、法華宗本門流の寺。
https://yaokami.jp/1375517/
「法華宗本門流は、日蓮を宗祖とし、日隆を派祖とする日蓮門下の一派。大本山は本能寺、本興寺、徳永山光長寺、長国山鷲山寺。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E5%AE%97%E6%9C%AC%E9%96%80%E6%B5%81
⇒「最澄・・・が取り入れた純粋な天台宗を、後代の人々がいろいろ不純なものを入れることで堕落してしまった。だから、最澄の原点に戻らなければいけないというのが、日蓮の非常に強い主張でした。・・・ただ、そこには少しズレがあり、台密についてはむしろ最澄は積極的に取り入れているところがありました。・・・念仏については、最澄の時代、基本的に念仏はなく、天台浄土教は後になります<が・・>。」
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=4733
と、日蓮自身が、天台的法華経観ではなく日蓮的法華経を、と唱えていたわけです。(太田)
<後者は、>折伏という積極的な布教活動による現実変革を通じて、この現世に本国土の建設をめざす・・・国柱会流の法華信仰の特徴だった。・・・
⇒「日蓮はその著作『開目抄』において、摂受よりも折伏の方が末法時代の日本においては適した布教法であると判定している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%98%E4%BC%8F
のですから、それは、国柱会だけではなく、日蓮を担ぐ宗派や団体全てに通ずる「特徴」です。(太田)
伏見宮邦家親王の第8王女として生まれた日榮は、京都の瑞龍寺(日蓮宗唯一の門跡寺院、尼寺)重職を務め、全国各地を巡教した。
門跡は摂家の九条家の猶子になる慣習から、日榮も九条家に入籍したのち、入寺した。
九条家出身の皇族や、宮中の女官にも日蓮宗や『法華経』の信奉者が多くいた。
たとえば、九条家出身の英照皇太后(孝明天皇の女御。九条夙子(あさこ))が明治30年(1897)1月11日に崩御した際、その遺体の周囲には在世中にみずから書写した「南無妙法蓮華経」や女官らが認めた題目の紙片が捧げられたという(崩御後、日榮が読経し、回向した)。
また、商圏皇太后(明治天皇の皇后。一条美子(はるこ))は熱心な日蓮宗の信者であり、明治45年(1912)7月30日の明治天皇の崩御後には『法華経』観世音菩薩普門品第二十五(いわゆる『観音経』)をみずから浄写し、夫の冥福を祈った。
この書写された普門品は、日榮に下付されたという。
九条家出身の貞明皇后(大正天皇の皇后、九条節子(さだこ))は、筧克彦の「神ながらの道」への傾倒(大正13年以降)で知られるが、それ以前は熱心な法華信者だった。
⇒貞明皇后が筧の進講を受けた過程で行った諸御下問中、法華経信仰についてのものもあり、それは、「皇室内で仏教を信仰することは天皇祭祀と矛盾しないかということに関しての質疑であろう。・・・筧は法華経信仰と日本古来の「神ながらのみこと」は矛盾しないと説いている<ことから、>貞明皇后の法華経信仰を肯定し<たはずである。>」
https://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no107_01.pdf
というのですから、「それ以前は」ではなく、「引き続き」でしょう。
なお、筧と懇意であり続けたのは、「筧の進講は、・・・宮中内部の人間には直接打ち明けにくいであろう自身の<実家との関係や子供達相互の葛藤に係る>胸中を相談する場ともなった」(上掲)からでしょうね。
なお、貞明皇后と筧の間を取り持ち、進講を実現させたのは、当時内大臣だった牧野伸顕です(上掲)。
また、どうして、こういう話を取り上げておいて、大谷は、幕末より前の皇族や摂関家の日蓮宗との関りを振り返ろうとしないでしょうか。(太田)
大正天皇の崩御(大正15年12月25日)の際には、貞明皇后の発案で大正天皇の柩が安置された隣室で「南無妙法蓮華経」が一枚の紙に48も認められた紙が多数作られたという。
なお、貞明皇后は「救癩」(ハンセン病患者救済)事業に積極的にかかわったが、昭和5年(1930)から、皇室は綱脇龍妙(つなわきりゅうみょう)の身延深敬(みのぶじんきょう)病院(現・身延深敬園。私立のハンセン病療養所)に援助をしている。
綱脇は若きころ、智学の日蓮主義の薫陶を受けた日蓮宗僧侶である・・・。
以上、神仏分離が図られたはずの皇室で熱心な法華信仰に励んだ皇族の姿を確認することができた。
こうした皇室と日蓮門下をつないだできごとが、立正大師諡号<(しごう)>宣下だった。
発案者は、本多日生だった。
大正11年(1922)10月13日<に>・・・皇室から日蓮にたいして、「立正大師」の大師号が贈られた。・・・
出願者として、(日生を含む)日蓮門下9宗派の各管長と、在家の日蓮信奉者(東郷平八郎、加藤高明、床次竹次郎、犬養毅、井口省吾、田中智学、佐藤鉄太郎、矢野茂、大迫尚道)の名前が記されていた。・・・
そして、大正11年(1922)10月13日午前10時、不受不施講門派をのぞく各宗派の管長(および管長代理)8名は宮城に参内し、宣下書を受け取った。
日生が各宗派代表として牧野伸顕宮内大臣と面会した<。>・・・」(304~305、334~338)
⇒貞明皇后と当時宮内大臣だった牧野が相談し、牧野が、本多日生が組織した「天晴会」の会員の小笠原長生(ながなり)子爵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E6%97%A5%E7%94%9F
・・予備役の海軍中将になり、兼任していた東宮御学問所幹事も辞め、宮中顧問官に就任したばかりだった・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E7%94%9F
を通じて、本多日生に、内々、日蓮への諡号宣下の発案者になるよう、働きかけたのではないでしょうか。(太田)
(続く)