太田述正コラム#13290(2023.2.7)
<大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか』を読む(その14)>(2023.5.5公開)
「・・・血盟団事件の余燼さめやらぬなか、昭和7年(1932)5月15日の日曜日、さらに大規模な政府要人のテロリズムにもとづくクーデター未遂事件が発生する。
五・一五事件である。・・・
この事件を実行したのは、海軍青年将校と陸軍士官候補生、橘孝三郎を指導者とする農本主義団体・愛郷塾<(コラム#10439)>の塾生たち、大学生や陸軍士官学校中退者などの民間人だった。
日召らによる血盟団事件に呼応しての決行だった。・・・
海軍大尉の塚野道雄・・・を除く海軍青年将校たちは藤井斉、井上日召との交流を通じて国家革新運動に従事することになるが、・・・国柱会の熱心な会員だった・・・塚野は・・・後方から運動を支援することにした(塚野は他の被告より年上で事件時、33歳だった)。
事件時も佐世保におり、事件に直接かかわっていない。
ただし、立憲政友会本部を襲撃する組に名前を配置されたことと、手榴弾を自宅に預かったことで、叛乱予備幇助罪で起訴された。・・・
その傍聴席には、田中智学の姿もあった。・・・
智学は・・・日召一派の行動は・・・「日蓮上人の聖訓」に違背している・・・。
日蓮は直接行動を否定しており、謗法者(敵対者)にたいして武力の代わりに布施をするなという合理的かつ合法的な方法を取った<、と>。・・・
⇒私の日蓮論はコラム#11375とコラム#12103のが最もまとまっているので、読み返していただきたいが、法華経や日蓮の方便的記述/主張に、智学も莞爾も・・前者は日蓮に、後者は法華経に、よりウェートを置いている点こそ違え、・・捉われているのに対し、宮沢賢治は法華経の方便的記述の背後にある核心的主張を、また、(私の言う)大日蓮主義者達は日蓮の方便的主張の背後にある確信的主張を、それぞれ見抜いていた、というのが私の見方です。
そして、法華経の核心的主張は、個々人は世界に(私の言う)人間主義を回復/普及させることに努めよ、であり、日蓮の核心的主張は人間主義が回復/普及できている日本は国を挙げて世界に人間主義の回復/普及させることに努めよ、であるとも。
このような見方に照らせば、(私の言う)小日蓮主義者たる智学によるところの、(私の言う)大日蓮主義者に使嗾された、ないしは、大日蓮主義者であった、日召一派への批判は、法華経や日蓮の方便的手法そのものを排斥したに等しいナンセンスです。
「国を挙げて世界に人間主義の回復/普及させる」にあたって、方便(手段)として、個々人が自分の命を犠牲にしたりすることはもとより、(テロやクーデタや内乱、等で)自国民の誰かや(国による暗殺や戦闘、等で)他国民の誰かを犠牲に供することは、必要悪として、当然認められてしかるべきだからです。(太田)
<昭和11年(1936)2月26日の>朝7時ごろ、・・・参謀本部作戦課長・・・の地位にあった石原莞爾・・・は、内閣調査局で調査官を務めていた鈴木貞一から電話を受け、・・・二・二六事件・・・の発生を知った。
⇒二葉会と共に木曜会は、陸軍エリート将校達の勉強会である一夕会の母体となった勉強会ですが、1927年に木曜会を結成したのは、鈴木貞一と石原莞爾であり、
https://omoide.us.com/history/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%9E%E4%B8%80%E3%83%BB%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE%E3%82%89%E3%81%8C%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%86%85%E3%81%AB%E3%80%8C%E6%9C%A8%E6%9B%9C%E4%BC%9A%E3%80%8D%E3%82%92%E7%B5%90/
そのような縁から、鈴木は石原にこの情報を伝えたのでしょうが、ご承知のように、陸軍上層部も海軍上層部も二・二六事件の発生を事前に掌握していたというのに、そして、当時、内閣調査局の調査官であった鈴木
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%9E%E4%B8%80
が事後にこの事件の発生を承知していたというのに、どうやら、石原には寝耳の水だったらしいのですから、この頃よりはるか以前から、石原は陸軍内で完全に浮き上がった存在になってしまっていたことが分かります。
というか、作戦課長という職責にも鑑みれば、石原は無能の極みだった、と言われても致し方ないでしょう。(太田)
新宿の戸山ヶ原の自宅を慌ただしく出発した石原は、午前8時前に参謀本部に出勤した。
その途中、安藤輝三大尉に遭遇する。
安藤が兵士に銃を構えさせ、「大佐殿今日はこのままお帰り頂きたい」と言ったところ、石原は「貴様何をいうか、陛下の軍隊を私するとは何事か」と叱責し、そのまま参謀本部に向った。
石原も出席した参謀本部の部課長会議では「断乎鎮圧の方針」が決定され、9時20分ごろ、杉山元参謀次長が参内し、天皇に鎮圧の意思を確認した。
天皇は26日の時点で蹶起部隊を「反乱軍」と呼び、鎮圧の意思を示していた。
なお、石原がはっきりと討伐の線を打ち出すのは28日のことである。
磯部浅一は陸相官邸で通過を許さない人物、惨殺すべき人物のリストを作成していた。
そのリストのなかには、林銑十郎、渡辺錠太郎、武藤章、根本博、片倉衷、そして石原の名前があった(石原は皇道派と敵対する統制派ではないが、非皇道派系一夕会会員)。
参謀本部を出た石原は、そのまま午前中に陸相官邸に駆けつけた。
それを迎えたのが、予備少尉の山本又<(注47)>(また)だった。
(注47)1895~1952年。「静岡生まれ。志願兵として陸軍に入隊し、静岡歩兵第34連隊に所属。1930年に予備役となり、在郷軍人会分会長を経て教員免許を取得して上京。二・二六事件の首謀者・磯部浅一と交流を深め、蹶起に参加。禁錮10年の判決を受けた。」
https://www.hmv.co.jp/artist_%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%8F%88_000000000514313/
当時、山本は40歳で20~30代の青年将校たちとは年齢が離れていたが、磯部との交流から参加することになった。
山本は国柱会の会員で、日蓮主義者だった(ただし、石原との面識はなかった)。
山本が陸相官邸表門で監視していたところ、マントを着て悠々と闊歩してくるひとりの将校がいた。
山本が手を挙げて歩哨線で止め、「どなたか?」と尋ねると、「石原大佐」と答えた。
山本は、「これが石原大佐」かと思った。
石原は「このままではみっともない、君等の言うことを聞く」と、山本に告げた。
⇒石原が、片倉衷(↑↓)に優るとも劣らぬ豪胆さを持ち合わせていたことは確かながら、(生起を事前に誰にも教えてもらえなかったために予め考えることができなかったとはいえ、)本事件への姿勢が揺れ動くことにもがっかりさせられます。
どうやら、石原に定見などなかった、と、言ってよさそうですね。(太田)
山本は惨殺リストに石原の名前が挙がっていることはもちろん覚えていたが、石原が陸軍内の第一の知能、大戦略家であり、『法華経』の信仰がきわめて深いことも知っていた。
そこで手を下さずに陸相官邸に案内した。
官邸内で村中、磯部、香田と会った石原は「負けた」と述べたという。
なお、玄関先に積もった雪が鮮血に染まっているのに気づき、驚いた石原は、「誰をやったんだ。誰をやったんだ」と尋ねた。
「片倉少佐」と山本が答えると、石原は驚き、黙然とした。
これは、磯部が陸相官邸に入ろうとした片倉をめがけて拳銃を発射したできごとの痕跡だった(ただし、片倉は一命を取り留める。)
その後、石原は青年将校たちのために相当に尽力をした。
27日午前1時、帝国ホテルで石原は清軍派(皇道派を排斥し、軍の清浄化を図ろうとするグループ)の橋本欣五郎大佐、皇道派の満井(みつい)佐吉中佐と会談し、事態の収拾について話しあった。
その結果、
・石原を通して天皇に反乱軍将兵の大赦を奏上し、これを条件として反乱軍は撤退、軍の力で革新政権を造る。
・その際、一、国体の明徴、二、国防の強化、三、国民生活の安定を方針とする。
とのプランを策定した。
また、山本英輔<(コラム#12833)>海軍大将を首相に推薦することにした。
ところが、青年将校側は全面的な撤退を拒み、「石原プラン」(大赦、撤退、革新内閣)は水泡に帰した。
翌28日午前9時ごろ、石原は戒厳司令部司令官室にいた。・・・
<彼は、>戒厳司令部参謀部第二課長<を>兼任<していた。>・・・
すでに情勢は蹶起部隊に不利になっていた。
すでにこの日の御前5時過ぎに蹶起部隊にたいして、原隊復帰の奉勅命令(臨変参命第三号)が下達されていた。
戒厳司令部司令官室には石原以外に、香椎浩平戒厳司令官、今井清陸軍省軍務局長、安井藤治(とうじ)戒厳参謀長、杉山参謀次長ら軍首脳部が集まっていた。
軍事参議官の荒木貞夫(皇道派)と林銑十郎も同席するなかで、蹶起部隊の意を汲んだ満井中佐が昭和維新の詔勅の渙発と強力内閣の奏請を進言。
その内容は帝国ホテルでのプランとほぼ同じものだった。
満井と軍事参議官が退席し、川島義之陸軍大臣が来席したところで、皇道派シンパの香椎は石原が起案した上奏案を提示。
それは血を流すことなく事態を収拾するために、昭和維新断行の聖断を仰ぐというもので、帝国ホテルでのプランを骨子とし、「昭和維新を可能にする強力内閣樹立の具申」でもあった。
なお、この上奏案について、北博昭(きたひろあき)は「「聖勅」によるかれ[大谷註:石原のこと]の昭和維新は、持論である世界最終戦争に備えた、強力内閣による高度国防国家の建設をめざすものだったといえまいか」、と推測している。
しかし、この上奏案は杉山が反対を表明し、川島も反対したので、香椎も断念せざるをえなかった。
けっきょく、香椎は討伐を断行することを主張した。
以後、石原も武力討伐へのイニシアチブを積極的に取っていくことになる。」(451~452、455~457、472~475)
(続く)