太田述正コラム#13292(2023.2.8)
<大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか』を読む(その15)>(2023.5.6公開)


[日蓮論の補足]

一 法華経と日蓮の記述/主張の方便性を巡って

 「妙法蓮華経方便品第二<=(法華経第2章方便品(ほん))>・・・
 私<(釈迦)>は仏となって<=(悟って/人間主義者になって(太田))>からこのかた、教化の手段(方便)として、種々のいわれ、種々の譬喩をもって、広く教えを説き、無数の教化の手段によって、衆生たちを教え導いて、多くの執着を離れさせてきた。それはなぜか、如来<=(釈迦を含む諸仏
https://kotobank.jp/word/%E5%A6%82%E6%9D%A5-110688 )>
は教化の手段と、物事の本質を見極め、覚る能力をすでに具えているからである。」
http://houmanji.d.dooo.jp/hokekyou2pdf.pdf

⇒このように、法華経自身が方便を説いているのだから、我々は、日蓮の言説も日蓮主義者達の言説も、その多く、或いは、その全てが、方便の可能性が高いものとして受け止めるべきなのだ。(太田)

二 謗法者(敵対者)に対する暴力/武力行使を巡って

 「蒙古からの国書が届き、予言の一つが的中した際、日蓮は幕府に次の4点の処遇を期待しています。
 一、国からの褒章、二、存命中の大師号の授与、三、軍議への招聘、四、敵国退治の祈祷の要請です。大師の称号は、智顗は存命中に受けていますが、最澄に贈られたのは死後のことでした。日蓮は、伝教大師を超える厚遇で自分を国師として迎えるべきだ、と主張しているのです。」(コラム#11375)

⇒「「日本第一之権状にもをこなわれ、現身に大師号もあるべし。定んで御たづねありて、いくさの僉義をもいゐあわせ、調伏なんども申しつけられぬらん」(『種種御振舞御書』定本959頁)。」(江間浩人『日蓮誕生』(257~258)より)がその出典であるところ、「僉義」とは、「せんぎ・・・日本の中世社会で,多人数の集会において評議することをいう。また衆議,評定の結果をもいう。」
https://kotobank.jp/word/%E5%83%89%E8%AD%B0-549538
であり、日蓮がいくさ(戦)への立ち合いを求めた以上は、発言することもあるべし、ということであり、「謗法者(敵対者)に対する暴力/武力行使」を是としたに決まっているわけだ。
 実際、例えば、「1263年・・・11月11日、<日蓮>大聖人は10人ほどの共を連れて工藤吉隆の屋敷に向か<っていた>途中、午後5時ごろ、・・・松原大路(小松原)で、待ち伏せしていた東条景信(とうじょうかげのぶ)の軍勢に襲撃を受け<、>・・・工藤吉隆は死力を尽くして戦い殉教<する>。」
https://sokafree.exblog.jp/26881843/

と、門下の武士の工藤吉隆が「謗法者(敵対者)に対<して>・・・武力行使」するのを日蓮が止めた形跡はない。

 「午後十一時、戒厳令司令部は正式に討伐命令を下した。
 翌29日早朝、重装備した鎮圧軍が蹶起部隊を包囲するなか、戒厳司令部は蹶起部隊の掃討を命じた。・・・
 二・二六事件後、陸軍から皇道派は急速に勢力を失うことになる。
 かわって擡頭するのが、石原を中心とした石原派(満洲派)である、と筒井清忠は指摘する。
 石原たちは翌年の宇垣一成内閣の流産と林銑十郎内閣の組閣に影響力を発揮した。
 が、それも林内閣組閣までが頂点で、昭和12年(1937)7月の日中戦争の勃発にともない、石原自身が左遷されることになる。

⇒二・二六事件は1936年2月で作戦課長、関東軍参謀副長に左遷されたのは1937年9月で作戦部長、でした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE
が、たった1年半ちょっとの「擡頭」期間とはこれいかに、という感じですし、申し上げたように前者の時点で陸軍内で完全に浮き上がっていて二・二六事件対処でもフラフラした石原を杉山陸相が参謀本部に引き続き1年半ちょっとも置き続けた方が不思議なくらいです。(太田)

 入れ替わりに擡頭したのが、東条英機、武藤章、富永恭次ら、統制派の永田鉄山の下に集まっていた旧統制派グループである。・・・

⇒1930年から終戦まで、杉山元が事実上陸軍を取り仕切っていた、というのが私の見方であること(コラム#省略)はご承知の通りです。(太田)

 二・二六事件に登場する人物のなかで、明らかな日蓮主義者は石原莞爾と山本又のふたりであるが、『法華経』の信仰者(法華信者)も含めると、その範囲はぐっと広がる。
 たとえば、皇道派青年将校の村中孝次、磯部浅一、安藤輝三、香田清貞が『法華経』の読授や題目の実践を公判調書のなかで語っている・・・。・・・
 ただし、磯部らに日蓮主義の影響は見当たらない。
 また、公判調書や獄中手記を読むかぎりでは法華信仰がみずからの行動を動機づけるものとなっているわけではない。
 その意味で、井上日召ら血盟団のメンバーや五・一五事件の塚野道雄に比べると「南無妙法蓮華経」とのかかわりは薄い。
 もっとも、彼らに影響を与えた北一輝と西田税は、熱心な法華信者であった。・・・
 <北には、>石原莞爾、井上日召<と>共通する、いわば「霊的日蓮主義」(西山茂)という特徴を看取できる<ところ、>三人のなかで霊的信仰の傾向がいちばん強かったのは、北である。
 北は『支那革命外史』(・・・1921年)のなかでみずからを「妙法蓮華経の一使徒」と規定し<、>・・・中国大陸における地涌の菩薩の現出を予見し<、>・・・みずからを日蓮以上の存在と認識<している。>・・・
 一方、北の右腕というべき存在の西田税も、警察の聴取書のなかで「・・・私は法華経を信仰して居ります」と述べている。・・・
 中央幼年学校時代の西田の同期生には、三好達治<(注48)>(のちに詩人)がいた。

 (注48)1900~1964年。幼年学校、陸士(退学)、三高、東大文卒。「太平洋戦争(大東亜戦争)が始まると達治は日本の勝利や日本の国家国民を賞賛称揚する「戦争詩」を複数制作し、『捷報いたる』『寒柝』『干戈永言』といった詩集にまとめて発表。日本文学報国会から委嘱されて「決戦の秋は来れり」の作詞も手がける。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%81%94%E6%B2%BB

 当時、三好は「日蓮主義者」だった。

⇒本当にそうだったのか、調べがつきませんでしたが、戦中の三好の詩作に照らせば、その可能性は大いにあったと思います。(太田)

 また、西田は高山樗牛の著書を通じて、日蓮の存在を知り、・・・『法華経』に親しみ、最初の羅南への赴任中も徳富蘇峰の『吉田松陰』『近世日本国民史 織田氏時代前篇』といっしょに日蓮の『立正安国論』を持参し、愛唱していたという。・・・
 <但し、>西田の法華経信仰は日蓮主義そのものではなく、また、北一輝のように法華シャーマニズムでもない・・・。」(475~482)

⇒大谷が、「日蓮主義の影響は見当たらない」とした人々は、私の言う小日蓮主義者達ではなかったかもしれないが、私の言う大日蓮主義者達ではあった、と、頭の整理をすればよいと思います。(太田)

(続く)