太田述正コラム#2389(2008.2.27)
<皆さんとディスカッション(続x74)>
<田吾作>
 自殺(コラム#2387)に関する資料をお送りします。
若者は自殺の危険度が高い(常識のウソ277)
 一般に、若者にとって初恋の時期は危険だと考えられている。ゲーテのウェルテルのように、失恋の痛手に耐えかねて自殺する若者はいまもあとを絶たない。そのため、若い人のほうが年配者よりも自殺する危険が高いかのように言われることが多い。
 だが実際はその逆である。年間の年代別自殺者数を見ると、年をとるほど多くなっている。二十歳未満では十万人に五人だが、七十歳以上では五十人にもなる。つまり、年をとればとるほど、自殺する人は増えるのである。いつの時代にも、そしてどこの国でも、この傾向は変わらない。
 にもかかわらず若年層の自殺ばかり目立つのは、一般に若者は滅多に死なないからである。彼らは、ガンとも循環器系疾患とも、老衰ともアルツハイマーとも無縁である。脳卒中や肝臓病の危険も非常に低い。言いかえれば、彼らには、事故、他殺、自殺以外の死因はほとんどない。だから、若年層の死因に占める自殺の割合が高くても、別に驚くには値しないのである。
参考文献
89 自殺
Helmut Swoboda : Knaurs Buch der modernen Statistik, Munchen 1971;Walter Kramer : Denkste! Trugschlusse aus der Welt des Zufalls und der Zahlen ,Frankfurt 1995
常識のウソ277 ヴァルター・クレーマー、ゲッツ・トレンクラー著 1998年 ㈱文藝春秋発行 P155 より引用
<遠江人>
 私の書き込みと太田さんのコメントの対比で縄文と弥生がほぼ逆になってますね(コラム#2385)。それも面白いところです。
>むしろ、普選によって縄文系に実権が移り、そのために軍事合理性抜きの支那(満州を含む)へのなし崩し的進出が続けられた、それを弥生系のエリート達は慨嘆して見ていた、と考えるべきではないでしょうか。
>また、先の大戦が始まる頃には縄文モード化・・私の言うところの日本型政治経済体制化・・が完成していた、と私は考えています。
 先の大戦において、ミッドウェー海戦以降、散見されることになる、軍事的な戦略の不味さも、縄文モード化が関係あるかもしれませんね。
 (過去のコラムで何度も言及されたところの)昭和の初期に構築され昭和の終わりまで続いた日本型政治経済体制(=総力戦体制)のことをすっかり失念していました。十数年という期間で縄文モード化は完成していたと言えそうですね。
>しかし、これらの学生運動を担った若者達は、弥生的要素抜きの縄文日本の行く手に待ち構える閉塞状況、そして没落を直感的に予見しており、この危機意識が彼らを駆り立てた、と見ることもあながち不可能ではないでしょう。
 戦後、縄文日本を変えたいと願う人々(左は共産主義革命を目指し、右は大東亜戦争を真正面から肯定した?)は、学生運動が終わった頃には縄文日本(左は 非現実的な絶対平和を夢想(全世界が縄文化すればいいな)し、右は米国のポチとなり、その他大勢はそのどちらかを消極的に支持?)を変える術など自分達は 持っていないのだとはっきり自覚してすっかり諦めてしまったのかもしれません。
 だからこそ、日本を外側から客観的に分析できる手段(アングロサクソン論然り、縄文・弥生モード論然り)を持つ太田さんは得がたい存在なのだと言えそうですね。
<太田>
>先の大戦において、ミッドウェー海戦以降、散見されることになる、軍事的な戦略の不味さも、縄文モード化が関係あるかもしれませんね。
 まさにその通り。
 縄文人の発想や行動様式は、軍事や危機管理にはむいていないのです。
 人間(じんかん)主義に伴うところの、時間をかけた合意形成、情報の共有、「敵」への甘さ、情/感性の重視(知/論理の軽視)等は日本型政治経済体制下における高度経済成長をもたらしたけれど、先の大戦における無数の兵士の無駄死・・玉砕・餓死・病死・・ももたらしたのです。
 話は変わりますが、次のような記事が産経新聞電子版に載っていました。
 石破茂防衛相へのイージス艦衝突事故の第一報が遅れた問題で、発生時に統合幕僚監部のオペレーションルームに当直勤務していた内局(背広組)職員が、同ルーム責任者の制服組(自衛官)幹部から石破氏に速報するよう指示されたにもかかわらず、防衛相秘書官への連絡を怠っ ていたことが・・分かった。 防衛省には「重大な事故・事件は各幕僚監部が(内局を経由せず)防衛相秘書官に1時間以内に速報する」とした事務次官通達があり、今回は統幕か海幕が石破氏に直接速報すべきだった。しかし、統幕、海幕両オペレーションルームの責任者も通達を認識しておらず、 石破氏への連絡が発生から約1時間半後になった。 ・・防衛省の調査では、統幕、海幕の両オペレーションルームが第一報を受けたのは、事故発生の41分後の19日午前4時48分。それぞれの幕僚長には発生後1時間前後で第一報が伝わった。 これを受け斎藤隆統幕長が「防衛相と内局に報告せよ」と指示。しかし、統幕オペレーションルーム責任者は直接速報せず、同ルームで当直していた内局職員に連絡するよう指示した。 同職員は直ちに運用企画局訓練企画室長に伝えたが、防衛相秘書官には連絡しなかった。このため石破氏に内局経由で第一報が届いたのは5時40分・・だった。(
http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/080225/dst0802250206001-n1.htm
。2月26日アクセス)
 どうやら、統幕・陸海空幕・内局の当直が一緒の場所にいて、全員を統幕の当直が監督しているという体制のようですね。その限りにおいては、うたた今昔の感があります。
 六本木時代は、全員別の場所でバラバラに当直したものです。
 さて、制服組の場合は当直にどんな人が就くのか知りませんが、内局の背広組の場合、オペレーション(運用・作戦・訓練)担当部局の人間が就くというわけではなく、課長補佐級と係員級の人間が内局の全部局の職員のうちから回り持ちで当直勤務に就きます。
 そんな人間に大臣秘書官に一報を入れさせるといっても、秘書官から何か聞かれた時に何も答えられないのが普通であり、無理というものです。ですから、担当部局(この場合は内局訓練企画室)に第一報を入れ、後の取り扱いを同部局に委ねたのは無理からぬものがあります。
 従って、防衛相秘書官への連絡が遅れたことに問題があるとすれば、それは訓練企画室(運用企画局)の責任です。
 元に戻って、統幕オペレーションルーム責任者が内局の当直に連絡を指示したのが不適切だったということかもしれませんが、これは一緒にいた内局当直に遠慮をしたということでしょう。
 内局に運用担当部局があるという世界の非常識がこのような問題を引き起こしたのです。
 戦前の言葉で申し上げれば、戦後の日本の軍事機構において、軍政と軍令が分立しておらず、軍令(運用・作戦・訓練)についてまで、軍令に疎い背広組が取り仕切っていることがおかしいのです。
 大臣を補佐する運用担当部局は統幕に一元化し、重大な事故・事件があった時は、背広組を一切関与させない形で大臣に情報が伝達されるようにすべきなのです。
 ついでに、ガーディアン電子版がコソボ(コラム#2375)の歴史のコラムを掲載したので、要点をご紹介しておきます。
 セルビア人にとって、歴史は彼らがバルカン半島に定着した7世紀初めに始まる。彼らがコソボを征服したのは13世紀初めになってからだ。
 セルビアによるコソボ支配は約250年続くが、コソボを含むセルビアは15世紀中頃にオスマン帝国領となる。現在のセルビアと中世のセルビアとの関係は現在のギリシャとビザンツ帝国の関係程度の継続性しかないと考えるべきだ。
 オスマントルコからまずセルビアが独立し、そのセルビア王国が1912年にオスマントルコ領であったコソボを征服する。当時だってコソボの住民の少なくとも75%以上はアルバニア人(イスラム教徒)であり、彼らはこの「解放」を歓迎しなかった。
 しかもこの時点でコソボはセルビアの領土に編入されたわけではない。
 1918年になってコソボの法的地位は定まったが、やはりセルビアの領土に編入されることなく、新生ユーゴスラビアの一部とされた。
 セルビアのミロシェヴィッチ(Milosevic)によってユーゴスラビア連邦が解体されるまで、コソボは二重の法的地位を維持した。すなわち、セルビアの一部であると同時に、セルビアと並ぶユーゴスラビア連邦の8つの単位のうちの一つだった。
 しかし、後者が優位にあったと言ってよかろう。コソボは自前の議会と政府を持ち、セルビアとは連邦レベルにおいては対等だった。(チトー亡き後は、大統領職を上記の8つの単位の代表が順番に勤め、コソボの代表も大統領職を勤めた。(太田))
 コソボ以外のほとんどすべての単位は現在独立国家となっている。
 従ってコソボの独立は、このプロセスを完結させる、というだけのことなのだ。
 (以上、
http://www.guardian.co.uk/world/2008/feb/26/kosovo.serbia  
(2月26日アクセス)による。)
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太田述正コラム#2390(2008.2.27)
<米キリスト教原理主義退潮へ?(その2)>
→非公開