太田述正コラム#2030(2007.8.29)
<セポイの反乱(特別編)>(2008.2.29公開)
1始めに
本篇は、「セポイの反乱」シリーズ(コラム#1769、1847)の特別編であり、この後もシリーズは続きます。
2 セポイの反乱の規模等についての新説
英国の植民地であった国々の英領時代の歴史は、英国の歴史学者や英国の歴史学者によって教育された当該国の人間によって書かれてきましたが、英領インド亜大陸の歴史を初めてインドで歴史学を学んだ人間によってセポイの反乱の歴史が描かれた、と英国とインドで話題になっているのが、ムンバイの歴史家ミスラ(Amaresh Misra)の’War of Civilisations: India AD 1857’です。
これまでセポイの反乱(Indian Mutiny=Indian Revolt=the first war of Indian independence)で殺されたインド人の数は約10万人とされてきたのですが、ミスラは、1857年からの10年間で、ほとんど1,000万人にのぼるホロコーストあるいはジェノサイドが行われた、と主張しています。”
この事実が今まで知られていなかったのは、英国インド当局が事実隠蔽に努めたからだ、というのです。
例えば、英当局の倉庫群で200万通も手紙が送達されずに保管されたところ、これについて英当局の人間達は、「われわれの女性や子供を殺したヒンズー教徒とイスラム教徒の奴らにわれわれの青年達が加えたであろう報復について」言及した手紙であるからだ、と書き記しているというのです。
インド人の死者の数でミスラが拠った典拠は三つあります。
一つ目はイスラムの戦士(mujahideen)の戦死録であり、二つ目はヒンズーの戦士(warrior)の戦死録であり、三つ目は英当局の労働力簿です。
最後のものによれば、インドの広範囲の地域において、労働者数が五分の一から三分の一も減少しており、その理由をある英当局の人間が、「このひどいみじめな日々において、英国の力が遺憾なく誇示された結果、数百万人が死んだ」と書き残しているというのです。
これに対し、英国とインドの歴史学者達から反論が投げかけられています。
一つは、労働者数の減少は、死亡によるもののほか、海外等への逃散・逃亡によるものもあるはずという反論であり、二つは、飢饉による餓死者もいたはずであり、その数字は除外すべきであるという反論であり、三つは、全般的に過大な積算が行われており、せいぜい死者は数十万と見るべきだという反論です。
しかし、三番目のアバウトな反論など反論になっていませんし、餓死だって、基本的に英当局の責任であるし、逃散・逃亡だってこの時期のものは殆どはやむにやまれぬ、しかも決死の行為であったに違いなく、これらの数が入っているのか否かなど些末な議論のように思います。
ミスラはまた、戦いは北インドだけで行われたと言われてきたのに対し、南部のタミル・ナドゥ、ヒマラヤ山脈の辺、そしてビルマ国境近くという具合にインド亜大陸の広範囲で行われたと主張しています。
戦いは1858年に終わったのではなく、10年にわたって続いた、というのもミスラの新しい主張です。
もう一つ。
シーク教徒は全面的に英当局の味方をしたとされてきた点についても、ミスラは、シーク教徒の東インド会社部隊の多くも叛乱に加わったと主張しています。
最も大事なことは、以上からも分かるように、セポイの反乱までのインドには、イスラム教徒とヒンズー教徒(、更にはシーク教)との間に、しかも地域を超えて、反英感情の形をとったところの共通の民族感情的なものが存在していた、ということです。
つまり、イスラム教徒とヒンズー教徒との反目は、その後の英国の直接統治下に英国の政策によって生じたと考えざるをえないのです。
反乱が山を越えた時点で捕らえられ、ビルマに流刑となってそこで逝去した最後のムガール帝国皇帝の遺骸をインドに帰還させることに、RSS(Rashtriya Swayamsevak Sangh。政党であるBJPと協力関係にあるヒンズー至上主義団体)が、同皇帝がイスラム教徒であり、かつイスラム・ヒンズー混淆的宗教意識を持っていたことから反対しており、いまだ実現していないのはなげかわしいことです。
(以上、事実関係は
http://www.guardian.co.uk/india/story/0,,2155324,00.html
(8月25日アクセス)、及び
http://in.rediff.com/news/2007/may/10guest.htm、
http://www.larouchepac.com/news/2007/08/24/history-what-every-ugly-american-must-know-about-civilized-b.html
(8月29日アクセス)による。
3 終わりに
19世紀にインド亜大陸で、英国によって1,000万人にもなろうかという民族浄化が行われた、という事実は極めて重いものがあります。
英国による植民地統治の過酷さがこれだけ明らかになってくると、一層日本による植民地統治の相対的寛大さが目立ってきますね。
セポイの反乱(特別編)
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