太田述正コラム#13296(2023.2.10)
<大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか』を読む(その17)>(2023.5.8公開)

 「・・・昭和10年(1935)8月の段階で・・・道義的な世界統一(八紘一宇)のための最終戦争の到来に向けて、「短期的にはソ連との戦争に備えるために、満州を日本の兵站基地にすること」が、この時期の石原の問題意識だった。
 そのために協和会の東亜連盟論をモデルとし、日本、満州、中国からなる東亜連盟の結成を主張した・・・。
 こうした意味からも石原にとって、中国と日本との戦争は避けるべきだったのである。
 以降、東亜連盟論が最終戦争論の重要な基調を形成し、下支えすることになる。・・・
 関東軍参謀副長<の>・・・石原は・・・昭和13年5月、・・・「戦争史大観」を執筆している。
 これは昭和4年(1929)7月<の>長春(新京)での講話を訂正したものである。・・・
 昭和4年版では「日本ガ完全ニ東洋文明ノ中心タル位置ヲ占ムルコト」となっていたが、昭和13年版では「東洋諸民族ノ団結成ルコト」に修正され、日本の立場が相対化されている。・・・
 <また、>「天皇ヲ中心ト仰ぐ東洋諸民族協同団結ノ基礎トシテ先ヅ日満支協同ノ完成ヲ現時ノ国策トス」という(東亜連盟論をベースとした)主張が昭和13年版には加えられている。・・・

⇒杉山構想では、満州事変/満州国建国は、日本軍をソ連/外蒙古の国境近くに配備することによって、来るべき対英米戦の中の対英戦における戦争目的達成までの間、ソ連を遠前方で抑止し続けると共に、終戦後、用済みになったこの満洲を中共が権力を掌握するであろうところの、支那、に返還する、という目論見だったので、杉山らからすれば、石原が唱え始めた日「満」支協同など笑止千万だったはずです。(太田)

 日本の立場を相対化しても、天皇の立場は一貫して変らず、その後、ますます重要な位置づけが図られ<てい>る<わけだ>。・・・

⇒終戦後、天皇制は象徴天皇制に移行させられるか廃止させられるかが必至である、と杉山らは考えていたと想像されるところ、そもそも、既に杉山構想では、天皇は奉られ利用される存在に過ぎず、天皇に「重要な位置づけ」など全くなされてなどいませんでした。(太田)

 石原の戦争史観に東亜連盟論が不可欠のものとして組みこまれた<のは、>・・・石原の戦略構想から・・・対ソ連戦のためにも日本の国力の消耗を防ぎ、中国の民族主義とも折り合いをつける必要があったからである。・・・

⇒杉山らは、容共親米の蒋介石政権ならぬ、人間主義の毛沢東の中共、と密かに手を握っており、この中共によるところの、中共こそ支那民族主義の旗手的な広報宣伝活動に事実上協力していた・・当時、関東軍参謀長だった東條英機もそのことを承知していたはず・・というのに、石原の認識はこの点でもズレまくっていたわけです。(太田)

 昭和13年(1938)8月、石原は意見書「関東軍司令官ノ満州国内面指導撤回ニ就テ」を磯谷参謀長・・東条の後任・・に提出する。
 内面指導を担当する第四課の廃止、新学制の整備、協和会への自治の委任、行政機構の簡略化、満鉄の法人化、関東州の満州国への譲与などを要望した。
 しかし、こうした意見は受け入れられるはずもなかった。

⇒どうして「受け入れられるはずもなかった」かを大谷は説明していませんが、そもそも、彼はまともにな説明はできないはずです。(太田)

 石原は・・・予備役編入願を出し、その返事を待たずに8月18日、・・・無断・・・帰国してしまう。・・・
 <そして、>9月1日に書き上げたのが、「昭和維新方略」・・・である。
 このメモはのちに『昭和維新論』に発展し、何度も改定を重ねていく。・・・
 石原は西洋や日本の侵略主義や帝国主義にたいして、「王道主義」を対置することで、東アジア諸民族の連合を図り、「東亜ノ大同団結」をめざした・・・。・・・
 「王道」とは、・・・『礼記』・・・にある「大同」にその原型を求めた橘樸(たちばなしらき)の提唱に由来する。・・・
 <元防衛大校長の>五百旗頭<眞によれば、>・・・石原にとっての「王道主義」とは「強者の弱者に対する寛容と配慮に基く協力関係の主張」であり、「帝国主義に対するアンチテーゼであり、かつ、自由放任という意味での自由主義への対立概念」だった。・・・

⇒杉山らと毛沢東らは、「強者の弱者に対する寛容と配慮」なき(広義の)欧米勢力を非欧米世界から駆逐するために手を結んでいたというのに、石原にせよ、五百旗頭にせよ、大谷にせよ、なんとまあ井の中の蛙ばかりであることよ、です。(太田)

 これ以降、石原の思想は最終戦争論、東亜連盟論、昭和維新論を中心として展開していくことになるが、この三者の関係性について、五百旗頭はこう指摘する。
 石原の認識に即していえば、最終戦争→東亜連盟→昭和維新の流れとなるが、実際に展開すべき運動プログラムとしては、昭和維新→東亜連盟→最終戦争の手順が必要と考えられたのである。・・・
 では、それを担うのは誰か。
 昭和10年(1935)から12年(1937)まで陸軍の中枢にいた石原にとって、それは陸軍だったが、帰国後の石原にそれは期待できず、国内外の幅広い勢力にみずからの主張を訴求すべく、石原は東亜連盟運動にいよいよ本格的に取り組むようになるのである。」(526~531)

⇒石原の政策論は、前にも示唆したように、法華経の記述に拘束されたところの、広義の宗教家としての机上の空論でしかないのです。(太田)

(続く)