太田述正コラム#2341(2008.2.2)
<仙台時代の積算ミス問題>(2008.3.6公開)
1 始めに
 どこの省庁でも事務屋と技官との関係は微妙なものがあるのではないかと思いますが、私の仙台防衛施設局長時代の経験に照らすと、幹部クラスが全員技官である建設部は私のような事務屋のキャリア局長や事務屋のノンキャリ総務部長の口出しを嫌う雰囲気がありました。
 当時の防衛施設本庁での防衛施設庁長官、次長、総務部長ら事務屋たるキャリア官僚と技術審議官を頂点とする建設部との関係も同様であったに違いありません。
 こんなことになったのは、防衛施設庁本庁や地方の防衛施設局で建設部を所掌上コントロールする職位に就いた歴代の防衛庁キャリアが建設部の仕事の専門性に藉口して、仕事をサボり、何のコントロールもしてこなかったからでしょう。
 これは建設部にとっても不幸なことでした。
 一昨年立件された、防衛施設庁の建設部系統による長年にわたる組織的な官製談合は、このような背景の下、時代が根本的に変わってしまったにもかかわらず、廃止することができなかったということではないでしょうか。
 仙台防衛施設局長時代に、私は官製談合にこそ気付かなかったけれど、ささやかながら局の建設部における誤った慣行の是正を行っています。
 今回はそのお話です。
2 積算ミス
 (1)前置き
 人間のやる仕事にミスはつきものです。
 ミスの発生を防止する努力をどれだけしても、ミスの根絶を期することはできません。
 むしろ、人間はミスをするようにプログラミングされていると考えるべきでしょう。ミスを通じて人間は新しい発見をし、歴史を前進させてきたと言ってもいいかもしれません。
 大切なことは、全く予想できなかったミスが起こった場合はともかくとして、予想できるミスについては、それが起こった時にいかに対応するか、平素からよく考えておくことです。
 
 (2)端緒
 1999年10月末、建設部から、ある建築・土木事業の設計変更(契約変更)の決裁が局長の私のところに上がってきました。
 予定価格を誤って高く積算してしまったところ、落札業者と契約したけれど、正しい予定価格よりも契約額(落札額)が上回っているので、この業者の落札率を正しい予定価格に掛ける形で算出した「正しい」落札額まで契約額を減額したい、というのです。
 こういうケースがどれくらい発生しているのか、予定価格を誤って低く積算してしまった場合はどうしているのか、と質問すると、自分達は「積算ミス」のことを「違算」と呼んでいるが、これはよくあることであり、予定価格を誤って低く積算してしまった場合は何もしていない、という答えが返ってきました。
 私は納得しませんでした。
 予定価格を誤って低く積算してしまった場合、正しい予定価格に対応した調査価格(調査価格を下回った落札業者が出た場合は、本当にそんな低価格で当該業者が事業を請け負えるのかを官側が調査した上で当該業者と契約するのかどうかを決定する)は上昇するはずであり、当該業者の落札額がこの正しい調査価格を下回っていた場合は、調査の対象とすべきではないか、またいずれにせよ、積算ミスの性格等に応じて場合分けをして、もう少し精緻な対応をすることにしないと、契約額の下方修正を求められた業者から訴えられた場合、官側が負ける場合がありうるぞ、と指摘したのです。
 (3)その後の成り行き
 しかし、建設部は私が求めた精緻な対応案をいつまで経っても持ってきません。
 本庁の建設部から指示もないのに、局で新たな対応案などつくれるか、余計なことを言い出す事務屋の局長だ、という気持ちだったのではないでしょうか。
 私は、オール防衛施設庁の建設部の技官達が時代の大きな変化を自覚していない、と思いました。
 これまでは、大甘の予定価格を決め、談合の下で落札率100%近くで業者に落札させ、その見返りに天下りを行ってきた、だから、業者を少しくらい泣かせても業者にまず実損は生じなかったし、万一実損が生じたとしても、長期的に当該業者に便宜を図ってやればよかったけれど、今や、公共事業予算の圧縮や談合に反発する世論の高まりを背景に、まともな予定価格を設定し、業者が低価格による応札を競いあう時代になりつつある、という大きな変化が生じつつあることを・・。
 業を煮やした私は、自分で図解入りの精緻な対応案をつくり、本庁の建設部と相談して検討するよう命じました。
 ところがそこまで私がやっても、業者を常に一方的に泣かせる対応をしないと、会計検査院につかまってしまうなどと言って、調査価格の問題を含め、私の案を検討をする気配がありません。
 仕方なく、翌2000年の1月の下旬、私は上京した折に、会計検査院幹部の友人を訪問し、私の案の感触をさぐりました。
 簡単に申し上げると、私の案で結構だし、そうあるべきだ、という感触でした。
 その上で、防衛施設本庁の建設部長(技官。仙台防衛施設局長の前任者です)と談判に及び、彼の諒解をとりつけました。
 本当は、本庁から全国の防衛施設局に、この新しい対応を流すことを確約させたいところだったのですが、彼自身が仙台防衛施設局長時代に認めていた対応が不適切であったことを全国の防衛施設局の建設部に白状するに等しい話なので、武士の情けでこのことは口にしませんでした。
 仙台に戻った私は、1月26日、局の建設部長に対し、局の総務部長と総務課長同席の下に事の次第を説明し、以後、このように対応するように指示したのです。
 たったこれだけのことを実現するために、これだけの手間ヒマがかかったというわけです。
 ちなみに、この局の建設部長とは、現在の東北防衛局長の酒井氏です。
3 終わりに
 今から考えると、当時の建設省がこの問題にどう対応していたかも調べてしかるべきでしたね。
 それはともかくとして、これは、防衛庁キャリアが碌に仕事をしていなかったことが、いかに防衛庁の各部署において手抜き仕事をもたらしていたかがお分かりになるエピソードではないでしょうか。