太田述正コラム#13304(2023.2.14)
<大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか』を読む(その21)>(2023.5.12公開)

 「・・・昭和16年(1941)3月1日、石原は予備役に編入され・・・立命館大学国防学研究所の初代所長に就任し、国防学講座の講師となった<(注57)>。・・・

 (注57)「石原莞爾<と>・・・立命館大学との結び付きは、舞鶴要塞司令官であった時期、日満高等工科学校設立の協力要請を受けたことに始まり、昭和15年(1940)には『世界最終戦争論』を立命館出版部から刊行しています。・・・
 日本初の機械化部隊とされる独立混成第一旅団を指揮した<のが>酒井鎬次で<あるところ、>・・・チャハル作戦において、酒井の<この>部隊は東条兵団に編入されていたのですが、東条・酒井の意見対立などから、十分な戦果を挙げられず、これがシコリとなったのか、東条の陸相時代に予備役編入と相成り<、>・・・酒井鎬次は戦史研究にも造詣が深く、失脚後は立命館大学にて、石原莞爾とともに国防学講座の講師をつとめたこともありました。」
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjFn8eqpf78AhUot1YBHccsDwAQFnoECAsQAQ&url=http%3A%2F%2Fsheemandzu.blog.shinobi.jp%2F%25E7%259F%25B3%25E5%258E%259F%25E8%258E%259E%25E7%2588%25BE-%25E4%25BB%258A%25E7%2594%25B0%25E6%2596%25B0%25E5%25A4%25AA%25E9%2583%258E%2F%25E7%259F%25B3%25E5%258E%259F%25E8%258E%259E%25E7%2588%25BE%25E3%2581%258C%25E6%25B0%2597%25E3%2581%25AB%25E3%2581%25AA%25E3%2582%258B%25E3%2580%2582%25EF%25BC%2597&usg=AOvVaw1ee7Il2F99QHtzu0dajTgg

⇒創立(1900年)から1944年まで、立命館大学のトップは中川小十郎である
https://www.ritsumei.ac.jp/profile/about/history/president/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%91%BD%E9%A4%A8%E5%A4%A7%E5%AD%A6
ところ、中川小十郎(1866~1944年)は原田熊雄と並ぶ、西園寺公望の最側近であって、立命館は、事実上、西園寺公望の学校であった・・公望が「学祖」とされている・・と言えるでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E5%B0%8F%E5%8D%81%E9%83%8E 及び上掲
 1933年に「 滝川事件・・・で辞職した京都帝国大学法学部教授・助教授17名を招聘」したのも、公望死去の翌年1941年に「石原莞爾(予備役陸軍中将)を所長に迎えて国防学研究所を設置」したのも、前者は「立命館総長・中川小十郎が西園寺公望の意向を踏まえ<て>・・・運ばれた」もの
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ですし、後者は、公望の臨終に立ち会った中川小十郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E5%B0%8F%E5%8D%81%E9%83%8E 前掲
が(私の想像では、牧野伸顕経由で杉山元の要請を受けていた)公望の遺志を受けての動きだったのではないでしょうか。
 そのココロは、前者は公望の堕落した政党への怒りの表明であり、後者は満州事変や宇垣一成総理就任阻止において杉山の意を体して大いに働きつつも、杉山が陸軍から排除せざるを得なかった石原への罪滅ぼしであったのではないか、とも。(太田) 

<また、>昭和15年(1940)9月10日、石原莞爾の『世界最終戦論』・・・が刊行され<、>・・・ベストセラーになった。・・・
 <ところが、>『戦争史大観』<と>・・・『国防論』<は、>・・・実質的<に>・・・発売禁止<となった。>・・・
 <そこで、>石原は、・・・郷里の鶴岡に戻ることにした。・・・
 『戦争史大観』<で、石原は、>・・・「八紘一宇に依る御理想は道義による世界統一」・・・だった<けれど>、日本では八紘一宇と言いながらも、弱者から権利を強奪しようとし、みずから強権的に指導者と言い張る者が多かった。日本主義が横行しながらも、「彼等の大部の心は依然西洋覇道主義」だった・・・。この「覇道主義が如何に東亜の安定を妨げて居るかを静かに観察せねばならない」として、日本の覇道主義を厳しく批判している。・・・

⇒非欧米世界と関わった当時の日本人達の中に悪徳日本人がいたことは事実ですし、彼らは非難されてしかるべきですが、石原の念頭にあったのは、当時の陸軍の上層部、すなわち、杉山構想信奉者達、であったところ、杉山構想は、覇道を手段として・・方便として!・・人間主義の普及という道義的目的を実現しようとしたものであり、石原は、実際のところ、法華経の記述についても日蓮の言動についても、その(私見では経験科学的である、ところの)核心、が分からずじまいだった、と言うべきでしょう。(太田)

 昭和24年(1949)<に>・・・石原<は>亡くなる<が、>・・・<彼の頭の中では、>原子爆弾の出現<と>・・・<日本の>敗戦<もあり、>・・・最終戦争回避論と最終戦争不可避論が併存し<た状態となるに至っていたところ、>・・・最終戦争のヴィジョンを再構築するには残された時間が・・・なかった。・・・
 敗戦を経て、国体神話の信憑性が弱まり、国体論的ナショナリズムの信憑構造もまた消失したことで、日蓮主義はその影響力を急速に失速させていくのである。」(547、550~559、571、573~574、588)

⇒宮沢賢治とは違って、石原莞爾のように法華経の記述や日蓮の言動の経験科学的な核心が分からずじまいだった者・・田中智学だって、良い時期に亡くなったおかげでボロが出なかっただけで、石原と大同小異だったと言ってよいでしょう・・は、状況の変化に伴って、自分の世界認識を修正せざるをえないのであって、そのことを意識的無意識的に広義のフォロワー達から見透かされたからこそ、戦後、彼らの影響力が急速に失われたのです。(太田)

(完)