太田述正コラム#2398(2008.3.2)
<あたごの衝突事故(その1)>(2008.3.14公開)
(本篇は、「フォーラム21」用原稿を執筆するために作成した、あたごの衝突事故に関するメモです。既にコラムで書いたことと大幅にだぶること、典拠はつけなかったことをお断りしておきます。)
1 始めに
2月19日午前4時7分ごろ、千葉県・野島崎の南南西約40キロの太平洋で、海上自衛隊の最新鋭イージス護衛艦あたごが、マグロ漁に向かって千葉県勝浦を出た漁船の清徳丸(7.3トン)と衝突し、漁船の2人が行方不明になった事件とその後の防衛省の対応をどう見るべきなのでしょうか。
2 衝突事故について
イージス護衛艦あたごの衝突事故と、1988年の潜水艦なだしおの衝突事故(30名死亡)は、どちらも船がたくさん行き来する海域で起こったものですが、両者を比べてみると、海上自衛隊や防衛省(庁)の劣化が1988年当時より更に一段と進んでいるという感が否めません。
海上衝突予防のために世界共通の回避ルールが定められており、大きい船も小さい船も同じ扱いになっていますが、実際問題として、小さい船の方が、小回りが利くし、停止することも容易である上、衝突した場合に小さい船の方がダメージが大きい(注1)ことから、衝突回避により配意すべきである、というのが船乗りの間の常識であると言ってよいでしょう。
(注1)後の米大統領ジョン・F・ケネディ中尉が率いる魚雷艇が1943年、ソロモン諸島の近くで日本の海軍の駆逐艦「天霧」と衝突し、天霧はほとんど無傷だったが魚雷艇は沈没し、同中尉が九死に一生を得た話は有名。
ですから、なだしおの事故の場合、釣り船がなだしおに気付きながらなだしおに近付きすぎて衝突に至ったものであること、潜水艦は漁船よりもむしろ回りが見えにくいこと、等を考えれば、私は、裁判でなだしお側により大きな過失があったとされたのはおかしいと思っています。
もちろん、なだしお側が事故後、航海日誌を改竄したことは誉められたことではありませんが、改竄したかった気持ちも分からないでもありません。当時は現在よりもはるかに世論が自衛隊に冷たかっただけに、一方的になだしお側が責められることを予期して、少しでも風圧を緩和しようとした、と想像されるからです。
ところが、今回の衝突事故では、あたご側の肩を持つのは極めて困難です。
最新の対水上レーダーを備え、何人ものレーダー監視員、見張り員、当直士官らが運航に携わっていながら、日本近海で自動操舵を続け、漁船団が接近しているという認識を明確に持たず、また、その漁船団内の清徳丸の存在についてはどうやら完全に見過ごし、衝突一分前になってようやく気づいて手動操舵に切り替え全力後進をかけたものの衝突してしまったというお粗末さです。
相手は漁船団ですから、いくら個々の漁船が小さいからと言って、漁船団側が衝突回避にあたご側より配意すべきであったとは言い難い面があります。しかも、漁船よりあたごの方が、周囲がより遠くから、しかもはるかによく見えるし、見ている眼も沢山あったのですからなおさらです。
その上、なだしおの事故の当時とは違って、現在はアルカーイダ系テロリストによる米軍や自衛隊への攻撃だってありえないことはない状況になっており(注2)、米海軍及び海上自衛隊の重要な基地である横須賀から太平洋へ出入りする時には海上自衛隊の艦艇は警戒を怠ってはならないはずです。
(注2)9.11同時多発テロが起こった2001年の前年の2000年10月、イエメンのアデン港に燃料補給のために停泊中の米イージス駆逐艦コール号に対し、小型ゴムボートが接近して爆発し、コールの乗員のうち17人が死亡し、39人が負傷し、同艦が航行不能となり、そイスラム過激派が犯行声明を出した。
そうなると、いくら夜明け前であったとはいえ、艦長が仮眠をとっていたこと自体問題なしとしません。
3 事故後の防衛省の対応について
事故後の防衛省(庁)の対応も、なだしおの事故の時に比べて今回の事故の対応のまずさは際だっています。
清徳丸に気付いたのは1分前だったと発表してからしばらく経って気付いたのは12分前だったと訂正したのはよしとして、この訂正の公表が遅れたこと、捜査にあたる海上保安庁の了解をきちんと取り付けずにあたごの航海長を事情聴取のために防衛省にヘリで連れてきたこと、しかもこの話を公表しなかったこと、この事情聴取に係るメモ作成の有無や事情聴取内容についての説明が二転三転したこと、これに限らず、大臣、次官、海幕長らによる記者会見の内容に食い違いが多発し、また、記者会見時の態度がしばしば顰蹙を買ったこと、等目もあてられない有様でした。
(続く)
あたごの衝突事故(その1)
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