太田述正コラム#13308(2023.2.16)
<江間浩人『日蓮誕生–いま甦る実像と闘争』を読む(その2)>(2023.5.14公開)

 「・・・二点目に、日蓮に乳母<(注6)>の存在が認められる点である。

 (注6)「乳母<については、>・・・江戸時代には将軍家,諸大名をはじめ民間にもこの慣習が行われ<た。>・・・
 庶民の産育習俗にも,生児に最初の乳を与えるのは生母でなく,ほかの婦人があたる慣習があった。これを乳付けといって,チアワセ,チワタシ,アイチチなどと称した。これらは母乳のまだ充分に出ない時期に他人とこのような関係を結んで,その人の力を生児に付与しようとする一種の儀礼である。生児と同じくらいの子をもっている人に頼み,男児の場合は女児をもっている人,女児の場合は男児をもっている人を頼んだ。これを乳付親あるいは乳親 (ちおや) という。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B9%B3%E6%AF%8D-35035

⇒「注6」から、江戸時代には民間でも乳母が存在したということは、武家がそうであったように、民間でも江戸時代より前においても、民間に乳母が存在した可能性が高いですし、乳母ではなく、乳付親/乳親だった可能性だってあります。(太田)

 三点目に、漁事・海事に関心を寄せ、下人や銭貨の使用に慣れるばかりか、名馬や名刀を愛でる態様である。・・・
 <例えば、>日蓮が所持したという太刀〈銘恒継(数珠丸)〉は「天下五剣」の一つで国の重要文化財に指定されている。・・・
 日蓮自身、移動は騎乗だと思われる。
 以上から推測できるのは、日蓮の家は生粋の坂東武士ではなく、文字の素養がある貴族出身の在所役人か御家人にちがいない。<(注7)>」(5、50)

 (注7)「漁民・水軍は特別な地位にあり、朝廷には「贄」と言う形で税を納めています。鳥羽からは「あわび」「海藻」「心太」(ところてん)などが納められていました。また、漁民を有する荘園や国衙領からも庄家や朝廷に海産物が納められています。石橋山の合戦で頼朝を負かした大庭景親の領地「大庭の御厨」は伊勢神宮に寄進した荘園なので、毎年「干しアワビ」を年貢と共に送っていました。
 ・・・水軍には色々な形態がありますが、いずれも漁業に深く関わっている豪族(この場合漁民の頭とか網元と言うべきでしょうか)が、ちょうど農園領主が武装して武士になるのと同じように、武士化していったものと思われます。鎌倉時代は物資の流通が活発になった時期でもあり、航路の開発と共に津や浦、あるいは湊が栄えた時期にもあたります。
 そうした立地にいた豪族の中には港の管理や荷揚げ、運搬などに進出していくものもありました。また航路の安全確保のための護衛や水先案内をする者も現れました。瀬戸内の村上水軍や真鍋水軍がその好例かと思います。
 何年か前に真鍋家ご当主にあってお話を伺いましたが、本来は漁民ですが、潮の流れが激しい瀬戸内では時間短縮や座礁の回避というニーズから水先案内も専門に行うようになったそうです。しかし、真鍋水軍のテリトリーに入っているにもかかわらず水先案内を断ったり、案内賃をけちったりすると途端に海賊に変身したんだそうです・・・(笑)
 航路が開かれて彼らは全く農業をしていないかというとそうではなく、土地を耕し水路を引くなどの開拓も行っています。相模の三浦水軍がその良い例です。三浦半島の大部分は丘陵地なので畑を開墾していますが、ごくわずかですが川の作った沖積地を水田化しています。また相模内陸進出の願望は強く、一族を相模平野周辺に根付かせています。・・・
 頼朝の建幕は彼が推進力になって行われたと思われがちですが、実は三浦氏をはじめ豪族たちの勢力拡大、武士の権利の確保と保障に対する強い望みが頼朝担ぎ上げに結びついたのです。その証拠に富士川の合戦で敗走する平氏を追撃しようと提案する頼朝に、上総介や主だった豪族が「まず板東の地固めが先」と反対しますね・・頼朝はこの時点でこの戦が源平の戦いではなく、朝廷をはじめとする既存の勢力との戦いであることを認識するわけです。
 ・・・義経は最後までこのことを理解できなかった。・・だから滅びたのです。
 話しを元に戻しましょう。三浦氏は半農半漁ですから海と陸に強い・・つまり陸軍と海軍を持っていたことになります。東京湾の入り口は完全に彼らが支配しており、対岸の安房も彼らの領地になっています。面白いのはいまでも安房の方言が相模とよく似ているところです。上総、下総地域の千葉県民に言わせると安房地方の人間は千葉県民じゃなくて神奈川県安房区民なんだそうです・・(笑)いまでも歴史の証拠が残っているということでしょうか・・面白いですね・・
 反対側には伊豆半島がありますね・・三浦氏は伊豆の豪族とも深い関係をもっています。地図を見るとよく分かるのですが。房総半島と伊豆半島のあいだにちょんと出ているのが三浦半島です。彼らはその立地を生かして相模湾・江戸湾周辺をテリトリーとして活躍した漁民・水軍だったということです。」(「鎌倉時代の勉強をしよう」(制作・著作 玉川大学・玉川学園 協同:多賀歴史研究所 多賀譲治)より)
http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/kamakura/otayori7.html
http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/kamakura/index.html

⇒「注7」を踏まえれば、私の言うように、仮に日蓮が網元の子であったとすれば、「漁事・海事に関心を寄せ、下人や銭貨の使用に慣れるばかりか、名馬や名刀を愛でる」ことに何の不思議もありませんよね。(太田)

(続く)