太田述正コラム#13314(2023.2.19)
<江間浩人『日蓮誕生–いま甦る実像と闘争』を読む(その5)>(2023.5.17公開)
「・・・日蓮の所管に「両人御中御書」がある。
大国阿闍梨(日朗)・衛門大夫志(池上宗仲)に与えた1279(弘安2)年ないし1280(弘安3)年10月20日の書簡である。・・・
大進阿闍梨(日蓮の弟子)の生前の譲り状の通り、なぜ彼の坊を弁阿闍梨(日昭)に渡さないのか、と日蓮が日朗と宗仲に迫っている。
坊の所有者は大進阿闍梨<(注12)>であった。
(注12)「大進阿闍梨 下総の国の出身で曾谷氏の縁者と思われる。大聖人の佐<渡>流罪中は鎌倉方面の信徒の指導にあたっていた。・・・弘安元年(1278年)九月以前に死去して<いる。>・・・
生前自らの住坊の譲状を残していた<。>」
https://plaza.rakuten.co.jp/jigemon/diary/200905270000/
「大進阿闍梨<は、>・・・曽谷教信の弟で<あるところ、その>・・・曽谷教信は皇后宮大進清原真人行清の子孫・大野右衛門大夫清原政清の子で、政清は日蓮の母の兄と著されている<ものがある。>・・・曽谷教信は・・・念仏信者で<あった、>・・・祖父<の>・・・大野政清・・・に背いて従兄弟の日蓮に帰依し、入道後は法蓮日禮と称して日蓮を支援をしたとされる<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%80%B2_(%E8%BA%AB%E5%BB%B63%E4%B8%96)
土地ではなく、坊を譲るのであるから、速く解体して日昭のもとに届けろ、と日蓮は迫る。・・・
日蓮は門下に対して数多くの文書を残している。
そのすべてが信仰に関係する激励や教示、供養に対する礼状である。
ところが、この一書だけは、坊の移設に関することに終始する。
もちろん、坊は教団の拠点となるから信仰と無関係ではないが、しかし、それは所有権が絡む問題である。
たとえ弟子・檀那とはいえ、日蓮が口をさしはさめる問題だったのか。
しかも、譲られる日昭と、叱責を受けている日朗・宗仲は親族である。
日昭の甥の2人に、日蓮はどのような立場から強い指示をし得るのか。・・・
日蓮自身と日昭・日朗・宗仲の三者との親族関係を想定して、はじめて成立するものではないのだろうか。・・・
⇒「注12」を踏まえれば、日昭に坊を遺贈した大進阿闍梨は日蓮の母方の従兄弟なのであるところ、それが事実であるとすれば、従兄弟の遺志の実現を日蓮が𠮟責的に図ろうとするのは当然でしょう。
江間のように、「日蓮自身と日昭・日朗・宗仲の三者<が>親族」であると主張する必要は全くありますまい。
以下、江間の日蓮の出自に係る独自説が延々と続くのですが、彼の説が成り立つ、いや、既存の説よりも説得力がある、はずがないことは、既に明らかだと思うので、省略します。(太田)
日昭は左大臣近衛兼経の養子になったという。
⇒「養子」は「猶子」でなければなりません!(太田)
母の妙一尼の関係だという。
妙一尼は工藤祐経の長女で、京に生れた。
祐経は平清盛の嫡男・重盛を烏帽子親として元服し、後白河院の武者所筆頭「一﨟<(注13)>」となる。
(注13)いちろう。「六位蔵人の首席,鎌倉幕府の当番人の筆頭などを一﨟と呼んだが,転じて年功を積んで長老となった者をさす」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%EF%A8%9F-1146263
一方、重盛の妹・盛子<(注14)>は近衛基実に嫁し、基通の養母となる。
(注14)1156~1179年。「保元の乱で摂関家は武力組織を解体され、その勢力を大幅に後退させた。苦境に立たされた大殿・藤原忠通は娘の藤原育子を二条天皇の中宮として摂関家再興を目指すが、・・・1164年・・・2月19日、志半ばで没した。清盛はこの機を捉え、4月10日、後継者で22歳の基実に9歳の盛子を嫁がせる・・・。摂関家としても若年の基実は心もとなく、後ろ盾が必要な状況だった。摂関家政所は・・・1164年・・・の段階ではまだ旧来の摂関家家司で構成されていたが・・・、翌・・・1165年・・・には平宗盛・重衡が加わるなど平氏の進出が顕著となっている・・・。
・・・1165年・・・7月28日に二条天皇が崩御し、基実も翌・・・1166年・・・7月26日に24歳で急死した。基実の子・基通は7歳と幼少であり、後任の摂政には松殿基房が就任する。この時、摂関家家司の藤原邦綱は殿下渡領・勧学院領・御堂流寺院領(氏院寺領)を除く膨大な私的家領・代々の日記宝物・東三条殿を盛子が伝領するよう策動し、自らは盛子の後見となった・・・。この結果、清盛は盛子の父として、摂関家領荘園の実質的管理を継続することになる。一般的に平氏による「摂関家領の横領」と呼ばれる事件であるが、これはあくまで、盛子が養母となっていた基通が成人するまでの一時的な措置という建前であり、憲仁親王(後の高倉天皇)擁立のため平氏との連携を模索していた後白河上皇もこれを認めた。10月10日の憲仁立太子の儀式は、盛子の住む摂関家の正邸・東三条殿で盛大に執り行われた。
わずか11歳で実質的な摂関家の家長となった盛子は、翌仁安2年(1167年)11月10日、白河押小路殿に移って「白河殿」と称されるようになる。11月18日には憲仁の准母として従三位となり、准三宮を宣下された・・・。・・・
夫の没後は、基通の養育の傍らで氏族内部の行事の遂行などを円滑にこなしていたが、・・・夫と同じ24歳で死去した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%9B%E5%AD%90
妙一尼が基通の孫・兼経と縁があっても不思議はない。
兼経の娘の宰子は宗尊に嫁し惟康親王を産む。
将軍宗尊は日昭の義弟、惟康は甥になる。
日昭は、日蓮が佐渡に流された際も圧迫を受けた形跡が一切なく、鎌倉で門下の教導を託された。」(8~9、10、80)
⇒日昭が近衛兼経の猶子になった背景が、江間のおかげでようやくきちんと分かりました。(太田)
(続く)