太田述正コラム#13320(2023.2.22)
<江間浩人『日蓮誕生–いま甦る実像と闘争』を読む(その8)>(2023.5.20公開)

 「・・・日蓮は安房国長狭郡東条郷の片海に生れた。
 この地の中心は、源頼朝が平家を下した戦勝記念として伊勢神宮に寄進した東条御厨である。・・・
 日蓮<は>東条御厨の出身である誇りを再三強調し、頼朝に対する親近感を表白している・・・。・・・
 <さて、>仮に日蓮が名越家と近しい存在であったとすれば、日蓮の教線の拡大が・・・北条重時<(注19)>・・・の目には名越勢力の伸張と映じたはずである。

 (注19)1198~1261年。「鎌倉幕府2代執権・北条義時の3男。母は正室で比企朝宗の娘・姫の前。極楽寺流の祖。第8代執権・北条時宗の母方の外祖父。・・・同母兄<に、名越>朝時<がいる。>・・・
 六波羅探題北方・鎌倉幕府連署など幕府の要職を歴任し、第3代執権の異母兄・北条泰時から娘婿の第5代執権・北条時頼<まで>を補佐して幕政を主導しながら鎌倉幕府政治の安定に大きく寄与した。・・・
 泰時と朝時の間は疎遠であり、その没後も両者の家系で嫡流争いを続ける事になるが、重時は一貫して長兄泰時との関係は良好で、重時の家系はその後も泰時の家系得宗家を支えている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%87%8D%E6%99%82

 重時が、その動向を早い時期から警戒するのも当然であろう。
 川添昭二<(注20)>氏が指摘する通り、安房での対決<(注21)>の延長線上に、鎌倉での日蓮弾圧がある。

 (注20)1927~2018年。九大文(国史)卒、同大助教授、教授、同大博士(文学)、同大名誉教授、福岡大教授。「中世の九州史を専攻する。禰寝氏(根占氏)研究の第一人者。元寇、日蓮についての著書も多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%B7%BB%E6%98%AD%E4%BA%8C
 (注21)「<上方>遊学を終えた日蓮は・・・1252年・・・秋、あるいは翌年春、清澄寺に戻った。<翌>年4月28日、師匠・道善房の持仏堂で遊学の成果を清澄寺の僧侶たちに示す場が設けられた。その席上、日蓮は念仏と禅宗が法華経を誹謗する謗法を犯していると主張し、南無妙法蓮華経の題目<だけ>を唱える唱題行を説いた。・・・
 念仏の信徒であった東条郷の地頭・東条景信が日蓮の言動に激しく反発して危害を及ぼす恐れが生じたため、日蓮は清澄寺にいることができなくなり、・・・清澄寺を退出した。」(※)

 ここではさらに踏み込んで、日蓮と名越家との接点を考察したい。
 佐藤弘夫<(注22)>氏は、日蓮が幼少期に両親とともに御恩を被った「領家の尼」は、東条御厨の領家であろうとされるが首肯できる。

 (注22)1953年~。東北大文(史学)卒、同大院博士前期課程修了。「盛岡大学講師、助教授、東北大学文学部助教授、文学研究科教授(日本思想史講座)。2000年「神・仏・王権の中世」で博士(文学)(東北大学)の学位を取得。2019年3月に定年退任。東洋哲学研究所(創価大学内)委嘱研究員。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%BC%98%E5%A4%AB

 そしてその領家とは、名越家ではなかったか。
 日蓮の檀那であったことで知られ、名越朝時の妻との伝承もある「<領家>の尼」は、1271・・・年の弾圧と続く二月騒動<(注23)>の時期に日蓮の元を去っており、それ以前からの門下であった。」(145、148~149、151~152)

 (注23)「1272年(文永9)2月におこった北条一族の内紛。・・・
 68年高麗使藩阜の来訪ののち,<時宗が>3月に・・・執権に就任した。
 71年モンゴル使趙良弼が筑前今津に至り,時宗は鎮西に所領をもつ御家人に鎮西下向を命じ<ていた。>
 <72年、>北条時頼の庶子時輔(ときすけ)は六波羅探題南方として京都にいたが,異母弟の時宗が得宗・執権となって幕府の権力の座についたことに不満をもち,謀反を企てた。これを察知した時宗は機先を制して,時輔の与党とみられた名越時章・教時兄弟を鎌倉で討ち,さらに六波羅探題北方の北条義宗に命じて時輔を討たせた。しかし事件後,時章は謀反計画に無関係であったことが判明し,その討伐は誤りであったとして討手は処刑され,時章の子公時は所領を安堵された。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E6%9C%88%E9%A8%92%E5%8B%95-857978
 北条義宗(1253~1277年)は、「鎌倉幕府第6代執権・北条長時[・・北条重時の嫡男で6代執権・・]の嫡男。赤橋流北条氏第2代当主。・・・最後(16代目)の執権・北条守時、鎮西探題となった北条英時、足利尊氏正室の赤橋登子は孫にあたる。・・・
 諱の「宗」の字は、元服時に将軍・宗尊親王より偏諱を受けたものとされる。赤橋流北条氏は、北条氏一門において得宗家に次ぐ高い家格を有しており、得宗家の当主以外では赤橋流北条氏の当主だけが元服時に将軍を烏帽子親としてその一字を与えられる特権を許されていた。執権・得宗家当主の北条時宗と同じく「宗」の字を二文字目においているのもこれによるものであり、これに伴って(時宗と同名を避けるため)1文字目には通字の「時」ではなく、曾祖父・北条義時の1字である「義」を使用している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E7%BE%A9%E5%AE%97
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%95%B7%E6%99%82 ([]内)

⇒このあたりの江間の主張は、日蓮自身の出生に係る主張に比べれば、それなりの説得力があります。(太田)

(続く)