太田述正コラム#13322(2023.2.23)
<江間浩人『日蓮誕生–いま甦る実像と闘争』を読む(その9)>(2023.5.21公開)

 「1253・・・年、地頭の東条景信による領地強奪に対抗して日蓮は「領家の尼」に加担して訴訟指揮を執る。
 この景信の領地強奪は、光時<(注24)>の配流によって名越家の力が衰えた時期と重なっている。

 (注24)北条光時(名越光時)(?~?年)。「北条朝時の嫡男。・・・家臣<に>四条頼基<がいる。>・・・第4代執権・北条経時が早世すると、光時が前将軍・藤原頼経と共謀して新執権・北条時頼を廃しようとした謀反が発覚する(宮騒動)。・・・結局頼経派は敗北し、頼経は時頼によって京都へ送還され、光時は出家して弟らと共に時頼に降伏し、所領を没収されて伊豆国江間郷へ配流となった。このことから、子孫は名越流の嫡流から外れ、江間氏を称した。
 得宗家と名越家の対立はその後も続き、二月騒動で弟・教時が再び謀反を起こして北条時宗に討伐されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E5%85%89%E6%99%82
 北条経時(つねとき。1224~1246年)は、「第3代執権の北条泰時の嫡男であった北条時氏の長男。母は賢母で名高い松下禅尼(安達景盛の娘)で、第5代執権となる北条時頼や北条時定の同母兄にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E7%B5%8C%E6%99%82

 重時が圧迫を加えるには好機だったといえよう。
 訴訟は、問柱所の裁断を仰ぐものだったが、異例の速さで領家勝訴に決したことを、日蓮は法華経信仰の験と誇る。

⇒問注所執事は鎌倉・室町期を通じて三善氏が世襲することとされていたところ、1253年は、1250年12月に引付衆が分離新設された直後にあたります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%8F%E6%B3%A8%E6%89%80
 執権は北条時頼、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%AE%E5%9F%B7%E6%A8%A9%E4%B8%80%E8%A6%A7
連署が、時宗の母方の祖父で問題の北条重時、でした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%87%8D%E6%99%82 前掲
が、問柱所、というか、三善氏・・当時の執事(4代)は、初代執事の三善康信の子の三善(太田)康連(やすつら)でした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%96%84%E5%BA%B7%E9%80%A3
・・は、司法権の独立を貫徹した、といったところでしょうか。
 ただ、一つだけひっかかるのは、引付衆は御家人の所領関係訴訟(所務沙汰)を扱い、問注所ではその他の民事訴訟(雑務沙汰)及び訴訟雑務(主に訴状の受理)を扱う、というものだった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%8F%E6%B3%A8%E6%89%80 前掲
ので、江間が主張するように領家も御家人だったとすれば、引付衆が裁断したはずだという点です。
 上述したように問柱所は引き続き訴状の受理は引付衆に回付するものを含めて行っていたので、(日蓮の原文がどうなっているのかは知りませんが、)日蓮の書き方が間違っていたとは言えない、ということなのか、原告が本当に名越家の当主だったとして、この当主は御家人ではあるけれど、領家の当主でもあり、訴えは領家の当主としてのものなので、訴状の受理だけでなく訴訟(問柱)自体も問柱所で行ったということなのか、はたまた、そもそも、本件の「領家」が名越家等の御家人ではなく、貴族や社寺だったのか、を、江間は明らかにすべきでした。
 なお、このような問題があるために、これまで、歴史学者達は、本件の領家が名越家である、というところまで、(江間のように)踏み込んでいない可能性が大です。(太田)

 後に四条頼基が讒言によって弾圧を被った際、日蓮は陳状を下書きし、それを富木常忍<(注25)>や比企熊本<(注26)>らに清書させて上申の準備をしている。

 (注25)ときつねのぶ(1216~1299年)。「下総国守護千葉氏の被官で、下総国八幡荘若宮に住んだ。1253年・・・日蓮の法華宗義に帰依し、下総における日蓮門下の有力な信者となった。・・・常忍は佐渡へ配流された日蓮を援助したうえ、養子の日頂を入門させて法華経の活動を支えた。1255年・・・若宮の自邸内に法華堂を建立し、1274年・・・に寺号を法華寺とした。1282年・・・日蓮の没後に出家して日常と号した。晩年は・・・日蓮の遺文の収集につとめ・・・た。
 1545年・・・太田乗明が建立した本妙寺と法華寺が合併し、法華経寺となった。その門流はのちに、中山門流と称される日蓮宗の中でも有力教団に発展する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%9C%A8%E5%B8%B8%E5%BF%8D
 (注26)「比企一族は・・・1203年・・・に権力保持を目論む北条一族によって滅ぼされました。その争いを「比企の乱」といいます。
 比企の乱の時、まだ幼少で京都にいたため生き延びたのが比企大学三郎能本でした。能本は、鎌倉の町に立って生命がけの布教をされている日蓮聖人に出会い、「わが一族の菩提を弔って下さるのは、このお聖人しかいない!」と決心し、自分の屋敷を日蓮聖人に献上したのが妙本寺の始まりです。
 日蓮聖人は、・・・1260年・・・比企能本の父・能員と母に「長興」、「妙本」の法号をそれぞれ授与し、この寺を「長興山 妙本寺」と名付けられました。・・・
 日蓮宗最古の寺院です。・・・
 第二祖は日朗聖人、第三祖日輪聖人を迎え、以来妙本寺と池上本門寺は一人の貫首が両山を統括する(両山一首)という方式が第74世 酒井日慎聖人の代まで(昭和16年まで)続きましたが、第75世 島田日雅聖人の代より専任の貫首を迎えることになりました。」
https://www.myohonji.or.jp/history/

 領家訴訟も、同様の人的ネットワークの活用があったと思われる。・・・
 千葉氏の被官だった富木・・・など、千葉氏の協力も得られたのではないか。
 すでに中尾堯<(注27)>氏が指摘しているが、千葉氏10代当主の胤貞は、亡父の9代当主宗胤とともに名越氏の遺骨を保持しており、千葉氏と名越氏の深い接点がうかがえる。

 (注27)1931年~。立正大文(史学)卒、同大修士。同大副手、助手、立正女子大短大助教授、東京教育大博士(文学)、立正大教授、同大名誉教授。「日本古文書学会会長、文部省学術審議会専門委員、文化庁文化財保護審議会専門委員、千葉県文化財保護審議会委員などを歴任。・・・
 仏教古文書学の観点からの日蓮遺文や曼荼羅本尊などを研究。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B0%BE%E5%A0%AF

 さらに宗胤は幼少時の1276・・・年、父・8代当主頼胤の一周忌に当たり日蓮から曼荼羅を送られ、一方、胤貞は子息を日蓮の弟子としていることから、千葉氏には、頼胤(1239~75)の時代から続く日蓮との強い結びつきが想定される。
 実際、日蓮が立正安国論を与えた八木胤家は、頼胤の幼少時にその後見として重要な役割を果たしたという。
 領家方の勝訴後、鎌倉名越邸の至近の要所に草庵が用意され、日蓮に拠点を提供している。
 これも千葉氏、根越氏、日蓮の重縁によるものと考えられる。・・・
 <こうした背景の下、>重時の娘であり、時頼の妻であり、現執権・時宗の母である後家尼御前(葛西殿<(注28)(>1233~1317<年)>)・・・<と>侍所司であった平頼綱・・・の連携が<、時宗による>日蓮弾圧の重要な要素になっていた点を指摘しておきたい。」(152~155)

 (注28)「北条時頼は13歳で毛利季光の娘を正室としたが、宝治合戦で季光が三浦氏側に付いたために離別しており、北条一門の宿老で大叔父にあたる重時の・・・長女・・・を継室として迎えた。・・・
 時頼はすでに宝寿丸<(時輔)>という男子をもうけていたが庶子であり、正妻から嫡子が生まれる事を強く望んで<いたところ、>、・・・1251年・・・、時宗・・・を出産。
 ・・・1253年・・・には宗政、翌・・・1254年・・・に女子を出産する。・・・葛西殿は宗教面において西大寺流律宗へ帰依し、時頼に嫁して禅・律などの法薫を受けた。
 「葛西殿」は葛西谷(現鎌倉市大町)に居を構え、得宗領などを支配し、対元貿易に関わっていた女性である事が知られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E8%A5%BF%E6%AE%BF

⇒北条政子もそうでしたが、鎌倉時代の武家においても、依然、女性が隠然たる力を持っていたことが分かりますね。(太田)

(続く)