太田述正コラム#2096(2007.9.30)
<朝鮮戦争をめぐって(その4)>(2008.3.31公開)
 最終章たる朝鮮戦争から始めることにしましょう。
 現在の日本人の多くは、占領史観の影響を受けた、戦前と戦後が断絶した歴史観を抱いています。
 ですから、朝鮮戦争についても、隣国で米軍と北朝鮮軍/中共軍とが戦った戦争、といった程度の認識の人が多いのではないでしょうか。
 このような認識は誤りです。
 韓国軍が、初期の潰走の後、釜山一帯に追い詰められた釜山橋頭堡防衛戦線で、(支援にかけつけた米軍とともに)頑強に抵抗したおかげで、韓米連合軍によるその後の反撃が可能になったことを忘れるべきではありません。
 朝鮮戦争の主役はあくまでも北朝鮮軍と韓国軍であり、それをそれぞれ中共軍と米軍等が支援した、ととらえるべきなのです。
 北朝鮮軍は中共軍やソ連軍に属していた朝鮮族部隊をそのまま北朝鮮軍師団に改編したものが殆どで練度が高かったのですが、その北朝鮮軍に対し、韓国軍は、建国後に新たに編成された師団ばかりであって、その5年前まで日本帝国臣民であったところの、その多くが日本軍出身者であった将校(注2)が、まだ訓練が十分ではなかった、やはりその5年前まで日本帝国臣民であった兵士を率いて戦いました。
 (以上、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%96%84%E7%87%81
(9月30日アクセス)、及び
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89
(9月28日アクセス)による。)
 (注2)例えば、開戦時の韓国軍の参謀総長は蔡秉徳(日本陸士49期卒・元日本陸軍少佐)、そして蔡の解任後の参謀総長は丁一権(日本陸士55期・日本陸軍憲兵。後に首相)であるし、釜山橋頭堡防衛戦線で最も活躍した第一師団長は白善燁(満州国軍官学校卒・元満州国軍中尉。後に陸軍参謀総長・駐仏大使・交通部長官)。
 そして北朝鮮軍は、1936年のソ連軍ドクトリンである『赤軍野外教令』に則って戦い、韓国軍は、日本陸軍の『歩兵操典』に則って戦ったのであって、北朝鮮軍と韓国軍の戦いについてみれば、朝鮮戦争は、1938年の張鼓峰事件や1939年のノモンハン事件、そして1945年の日ソ戦に引き続く最後の日ソ戦であるという意味において、私の言う東アジア25年戦争の最終章だったのです。
 (ここは、
http://www.okazaki-inst.jp/?p=432
(9月28日アクセス)を大いに参考にした。)
 それに、朝鮮戦争には、正真正銘の日本の武装部隊が参戦をしています。
 海上保安庁の掃海艇(もちろん旧海軍由来)が戦闘地域である朝鮮水域で掃海を実施した(注3)のです。
 (注3)「10月6日米極東海軍司令官から山崎猛運輸大臣に対し、日本の掃海艇使用について、文書を以て指令が出された。1945年9月2日の連合国最高司令官指令第2号には、「日本帝国大本営は一切の掃海艇が所定の武装解除の措置を実行し、所要の燃料を補給し、掃海任務に利用し得る如く保存すべし。日本国および朝鮮水域における水中機雷は連合国最高司令官の指定海軍代表者により指示せらるる所に従い除去せらるべし。」とあり、進駐軍の命令により海上保安庁は朝鮮水域において掃海作業を実施する法的根拠は一応存在していた。もっとも、朝鮮水域は戦闘地域であり、そこで上陸作戦のために掃海作業をすることは戦闘行為に相当するため、占領下にある日本が掃海部隊を派遣することは、国際的に微妙な問題をはらんでいた。また、国内的には、海上保安庁法第25条が海上保安庁の非軍事的性格を明文を以て規定していることから、これまた問題となる可能性があった。そこで、日本特別掃海隊は日章旗ではなく、国際信号旗のE旗を掲げることが指示された。吉田茂首相の承認の下、米国海軍の指示に従い、10月16日に海上保安庁は掃海部隊を編成し<、朝鮮水域に派遣し、掃海を実施し>た」(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89
上掲)
 中国共産党との内戦に敗れて台湾に逃げ込んでいた中国国民党も朝鮮戦争への参戦を希望したのですが、中共軍の参戦を惹起する懼れがあったので米国はこれを断っています。 なお、朝鮮戦争が勃発すると、台湾海峡を挟んで内戦が再燃することを懼れた米国は、第7艦隊を台湾海峡に派遣しています。
 (以上、
http://en.wikipedia.org/wiki/Korean_War
(9月28日アクセス)による。)
 疎遠になっていた中国国民党と米国との関係修復もまた、朝鮮戦争を契機に成ったのです。
 このように見てくると、東アジア25年戦争の最終章、かつ最後の日ソ戦としての朝鮮戦争は、それまで日本を敵視していた米国(や英国等)と中国国民党が、初めて日本の側に立ってソ連と中国共産党と戦った最初にして最後の戦争であった、という捉え方ができるのです。
 朝鮮戦争の結果、南北併せて最高約300万人(南約100万、北最高約200万)の旧日本帝国臣民たる一般市民、41万5,000人の旧日本帝国臣民たる韓国軍兵士、33,000人の米軍兵士、約150万人の北朝鮮兵士(その中には多数の旧日本帝国臣民が含まれている)と中共軍兵士が死亡しました(
http://www.latimes.com/features/books/la-et-rutten25sep25,0,190081,print.story?coll=la-home-middleright
。9月28日アクセス)。
 この天文学的な犠牲、とりわけ旧日本帝国臣民の犠牲は、米国が旧日本帝国を敵視し、先の大戦で旧日本帝国を瓦解せしめてさえいなければ生ずるはずがなかったことに鑑みれば、その責任は米国が一義的に負わなければならない、と私は考えているのです。
(続く)