太田述正コラム#2460(2008.4.1)
<沖縄集団自決事件判決(その2)/マリネラの核武装問題:消印所沢通信25(その2)>
原告は、遺族年金を受けるために住民らが隊長命令説をねつ造したと主張したのですが、判決は住民の証言は年金適用以前から存在したとして退けました。(東京新聞社説前掲)
また原告は、軍命令は集団自決した住民の遺族に援護法を適用するために創作されたと主張したのですが、この主張を裏付ける沖縄県の元援護担当者らの証言について、判決は元援護担当者の経歴などから、証言の信憑性に疑問を示し、「捏造を認めることはできない」としてこれも退けました。(産経新聞「主張」前掲)
更に原告は、渡嘉敷村の助役が集団自決を命令したとも主張したのですが、判決は「信じがたい」としてこれもまた退けました。(朝日新聞社説前掲)
渡嘉敷島の集団自決の生存者を取材した作家の曽野綾子氏は1973年に出した著書において、隊長「命令」説は根拠に乏しいと指摘しました。これを受けて家永三郎氏の著書「太平洋戦争」は、86年に渡嘉敷島の隊長命令についての記述を削除しています。更に、座間味島の守備隊長に自決用の弾薬をもらいに行ったが断られたという女性の証言を盛り込んだ本が、2000年に刊行されています
しかし、一方で、日本軍が自決用の手榴弾を配布したとの証言もあります。
(以上、讀賣新聞社説前掲)
これに対して判決は、一、多くの体験者が、兵士から自決用に手榴弾を配られた、二、集団自決が起きた場所にはすべて日本軍が駐屯しており、駐屯しなかった渡嘉敷村前島では「集団自決」が発生しなかった、ことなどを挙げて「集団自決には日本軍が深くかかわったと認められる」と述べ、その上で、「元守備隊長らが命令を出したとは断定できない」としながらも、「関与したと十分推認できる」ことから、大江が「命令があったと信じるには相当な理由があった」と結論づけました。(朝日新聞社説前掲及び琉球新報社説
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/d4ceae3a9350607917d91d5ffeed9694
(3月30日アクセス)による。)
なお、沖縄守備軍が住民に集団自決を命じた文書は一切発見されていません。(沖縄タイムス社説
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/d4ceae3a9350607917d91d5ffeed9694
(3月30日アクセス))
このように、「公共の利害に関する事実にかかり、公益を図る目的」(公共性のある)の言論に関し、名誉毀損にあたると主張する側に極めて厳格な証明を求めたこの判決の基本的な考え方には私は諸手を挙げて賛成です。
新聞は、公共性のある言論を商品とする営利企業であることに鑑みれば、「集団自決の背景に多かれ少なかれ軍の「関与」があったということ自体を否定する議論は、これまでもない。この裁判でも原告が争っている核心は「命令」の有無である。」などと讀賣は社説の中で言って、果たしてよいものでしょうか。
讀賣に掲載される記事が、すべてそこまで厳格なウラをとって書かれているはずがないからです。
従って、この判決が、元守備隊長らが集団自決に関与したと推認できるので元守備隊長らが集団自決命令を出したと大江が書いたことには過失はなく、名誉毀損は成立しないとした論理構成については、読売だって産経だって賛成すべきだと私は思います。
そうだとすれば、残された問題は、この判決が、元守備隊長ら、つまり原告らが集団自決に関与したと推認したことの妥当性だけだ、ということになります。
すなわち、読売社説が言うところの「集団自決の背景に多かれ少なかれ軍の「関与」があったということ自体を否定する議論は、これまでもない」というのが事実だとすれば・・私は個人的にはそうは言い切れない気がしているけれど(脚注参照)・・後は元守備隊長らは少なくとも集団自決に「関与」しなかったかどうかだけでしょう。
(部下の「関与」について、責任があるという論法をとれば話は別ですが・・)
結局、元守備隊長らは、自分達が集団自決に関与しなかったことの証明に失敗したということです。
そんな証明などおよそ不可能だ、というわけではありません。
この裁判の口頭弁論終結後(判決前)の今年2月、座間味島で守備隊長が集団自決を戒めたとする元防衛隊員の証言が出てきたという産経新聞「主張」の指摘が正しいとすれば、控訴審でこの判決が覆る可能性があります。
このことから、朝日や東京の社説だっておかしいこと、特に鬼の首をとったような朝日の社説のはしゃぎぶり・・直接お読みいただきたい・・はおかしいことがお分かりいただけるのではないでしょうか。
この判決や来るべき控訴審判決で大江側が敗訴した時、一体朝日や東京はどんな内容の社説を掲げるつもりなのか、予想ができますね。
そんな社説を載せる社説欄など廃止すべきしょう。
(脚注)
1 住民の集団自決への軍の関与を推認させるとされる資料
(1)「軍官民共生共死の一体化」の方針
防諜等二関スル県民指導要綱」(1944年11月18日)
・・原則トシテ皇国ノ使命及大東亜戦争ノ目的ヲ深刻ニ銘肝セシメ 我国ノ存亡ハ東亜諸民族ノ生死興亡ノ岐ル所以ヲ認識セシメ真二六十万県民ノ総蹶起ヲ促シ以テ総力戦態勢へノ移行ヲ急速二推進シ軍官民共生共死ノ一体化ヲ具現シ如何ナル難局二遭遇スルモ毅然トシテ必勝道二邁進スルニ至ラシムル様一般部民ヲ指導啓蒙スルコト・・
http://www.jca.apc.org/~husen/0704kaihou46_5.htm。3月30日アクセス
(2)住民たるスパイを殺害せよとの命令
「鹿山文書」( 昭和二十年六月十五日)
(久米島部隊指揮官→具志川村 仲里村 村長 ・警防団長)
・・妄ニ之ヲ拾得私有シ居ル者ハ敵側「スパイ」ト見做シ銃殺ス・・
http://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/sikayamabunsyo.html。3月30日アクセス
米軍上陸後<の>三二軍司令部軍会報
・・軍人軍属ヲ問ワス標準語以外ノ使用ヲ禁ス 沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トシテ処分ス・・
http://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/usijimasireikannokunji.html。3月30日アクセス
2 住民の集団自決への軍の関与がなかったことを推認させる資料
(1)大田実・沖縄根拠地隊司令官「遺書」
・・沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
・・所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%AE%9F。3月31日アクセス
(2)2次資料
・・県民は、軍に協力は惜しまなかったし、疎開に関してはその意図を知ってか知らずか、友軍(日本軍)の近くにいた方が安心、という気持ちが大きく働いて県外疎開を渋るものも多かった。そのことは県内疎開についても同様であった。・・
http://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/usijimasireikannokunji.html。3月30日アクセス
・・県下で「集団自決」が起きた現場のほとんどに日本軍がいたことを考えると、「自決」者たちは進めば米軍、とどまれば日本軍という極限状態に置かれ、結局は自らの命を絶たざるを得なくなり、犠牲者を増やした・・
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu128.htm。3月30日アクセス
3 私の見解
以上から、私は、日本軍に同行した住民(老人、子供、及びこれらを率いた人々)は、軍の意向に反して同行したものであるところ、必然的に日本軍人とともに米軍の攻撃対象となり、仮に生き残ったとしても、米軍の暴行陵虐を受けると思いこんでいたことから、集団自決が起きた、と考えます。
つまり、以前にも(コラム#2120、2129で)申し上げたように、サイパンでの日本人住民の集団自決と同じケースだと思うのです。
ただし、サイパンと違って集団自決に「適した」断崖がなかった沖縄(含む座間味島)では住民は集団自決の手段を探し求めたと考えられるのです。
手榴弾が、このような背景の下、軍から住民に手交されたケースがあったということでしょう。
しかし、米軍の暴行陵虐を受けるという観念を流布させたのが軍であった可能性は否定できませんし、手榴弾が手交されたケースがあったことも間違いないないでしょうが、これらをもって軍の関与があったと言えるかは疑問です。言葉の定義の問題ですが・・。
いずれにせよ、集団自決命令が、たとえ口頭にせよ発せられたケースはなかったと思われるのです。
(完)
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<マリネラの核武装問題:消印所沢通信25(その2)>
※1 『ザ・スーパースパイ 歴史を変えた男たち』( アレン・ダレス著)より. ただし邦訳版(光文社,1987.11)では原著の2/3が 割愛されており,上記のエピソードは邦訳版には登場しない.
※2 『サムソン・オプション』(セイモア・ハーシュ著, 文芸春秋,1992,2)より.
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パーヴェル・スドプラトフ. 1907年,ウクライナ・メリトポリ生まれ. 彼はKGBエージェントであったが,ベリヤ失脚と共に逮捕され,名誉回復されたのはゴルバチョフの時代になってからだった.
スドプラトフは1944年2月,ベリヤから新たな任務を命じられる.※1 それはアメリカの原爆開発情報を入手せよというものだった.
NKGB(KGBの当時の名前)ではそのころ,サンフランシスコ駐在官グレゴリイ・ヘイフェッツが,物理学者ロバート・オッペンハイマーとの接触に成功していた. オッペンハイマーの妻も弟も友人の多くも共産党員または共産党シンパであり,オッペンハイマー本人も共産党シンパとして,その活動に協力していた. また,ドイツ系ユダヤ人の移民の息子であるオッペンハイマーは,「ソ連国内にユダヤ人安住の地が約束された」と聞かされ,ひどく感動していた. 彼はヘイフェッツと,「(スターリンが提供してくれる予定の)クリミア半島のユダヤ人国家」について熱心に語り合ったという.
NKGBはそのオッペンハイマーや,レオ・シラードの秘書などを通じ,ロスアラモス研究所に「もぐら」(潜入スパイ)を送り込むことに成功する.※2
その「もぐら」の一人が遭遇したのが,彼だった.
(つづく)
※1パヴェル・スドプラトフ他著『KGB衝撃の秘密工作』上巻(ほるぷ出版,1994年)
※2上掲『KGB衝撃の秘密工作』による.
ただし,スパイ行為幇助の意図がオッペンハイマーにあったかどうかは,現在でも分かっていない. ガイ・バード他著『オッペンハイマー』(PHP研究所,2007年)は,オッペンハイマー=スパイ説を否定する. 同書によれば,FBIや軍情報部が彼を監視し,盗聴していたにも関わらず,スパイ容疑の確たる証拠を挙げられずに終わっているという. また,公開されたKGB文書にも,それを示すものはないという. オッペンハイマーの共産党シンパぶりについても,「それが当時のアメリカ人知識層の一般的な風潮だったのだ」と説明している.
しかし同書では,キーパーソンの一人であるヘイフェッツについて殆ど無視しており,考察の客観性の点で問題がある. またスドプラトフによれば,戦時の緊急性と原爆開発計画の特殊な性格により,KGBエージェントは工作員勧誘に当たってモスクワの事前承認を得ることが省略され,そのやりとりもファイルされていないという.
総合的に考えるに,実情はこういうことだろう.
オッペンハイマーは確かに「もぐら」をロスアラモスに潜伏させる行為に手を貸しただろうが,それは通常の「友人の紹介」の範囲を超えなかっただろう. そしてその「もぐら」は,共産党とは全くかかわりがなさそうな人物だっただろう. 当時のソ連スパイは,「摘発される危険性が高い共産党関係者を,諜報組織に引き入れないこと」を鉄則としていたからである.
例えばゾルゲ事件でも,僅かな例外を除いて,ゾルゲはその鉄則を守っているし,ゾルゲ・スパイ網が発覚するきっかけになったのも,その僅かな例外のせいだったと考えられている.
原爆情報をソ連に提供したのは,オッペンハイマー自身ではなく,その「もぐら」だっただろう. そしてその「もぐら」は,これまでスパイ容疑者としては今まで名前が一度も挙がっていないような人物だろう.
※3 あ,今回,マリネラの「マ」の字も出てきてないや.
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<太田>
所沢さん、送ってこられた「その1」の脚注を入れ忘れ、失礼しました。
魔夜峰央のギャグ漫画『パタリロ!』のギャグにしてエープリルフールを兼ねるとは、脱帽です。
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太田述正コラム#2461(2008.4.1)
<駄作史書の効用(その4)>
→非公開