太田述正コラム#13324(2023.2.24)
<江間浩人『日蓮誕生–いま甦る実像と闘争』を読む(その10)>(2023.5.22公開)

 「・・・日蓮斬首の企てと二月騒動もまったく無関係ではなかったと思われる。
 1272・・・年2月に、執権、連署に継ぐ第三の要職にあった名越時章<(注29)>、その弟の教時<(注30)>が謀反の疑いで殺されて名越家は力を失うのだが、攻撃の首謀者は頼綱であり、これは日蓮配流の4か月後に起こっている。

 (注29)1215~1272年。「名越流北条氏の初代北条朝時の子で、第2代当主。・・・母<は>大友能直の娘<。>・・・
 1245年・・・には兄の北条光時が5代執権北条時頼の廃立を企てて失敗した宮騒動により失脚しており、時章は赦免されて宝治元年(1247年)より評定衆となる。時章は穏健派で、得宗家との協調を望んでいたが、兄光時や弟教時が急進的な反得宗であったため、家中の政争に巻き込まれてゆく。
 8代執権北条時宗の頃、・・・1272年・・・に弟・教時が謀反を起こし、時章のもとにも追討の兵が迫り、その兵によって殺害される(二月騒動)。・・・その後、時章は無実であったことが判明し、時章を殺害した四方田時綱ら5人は斬首に処せられ、時章の子の公時は評定衆、孫の時家は評定衆・鎮西探題に就任するなど、時章の子孫は幕府の要職に取り立てられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E7%AB%A0
 (注30)1235~1272年。「北条朝時の子。母は北条時房の娘。「北条得宗家への反抗の意志が強く、・・・1266年・・・6月、将軍宗尊親王の京都送還の際、北条時宗の制止を無視して軍兵数十騎を率いて示威行動に出ている。
 ・・・1272年・・・、得宗転覆を企て謀反を起こすが、8代執権となった時宗の討伐軍によって討ち取られた(二月騒動)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%95%99%E6%99%82

 この事件で日蓮門下にも井沢入道など死傷者が出たようで、・・・日蓮自身も後に「もし流罪されずに鎌倉にいたならば、私は二月騒動で間違いなく打ち殺されていたであろう」と述懐している。
 また、名越氏の殺害についても、「日本国のかためたるべき大将ども由なく打ちころされぬ」、「・・・さかんなりし花の大風におるるがごとく、清絹の大火にやかるるがごとくなりし」と述べ、その無念を表明する。
 先に触れた「<領家>の尼」はこの時期に日蓮のもとを一旦は去ったものの、後に後悔し、嫁の新尼(誅殺された教時の妻<?(注31)>)とともに日蓮に本尊を請うたようである。

 (注31)不詳。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E5%AE%97%E6%95%99

 こうした一連の経過は、日蓮と名越家の結びつきの深さを示しており、それが日蓮に対する処遇にも直結していたといえよう。」(155~156)

⇒江間は、「<領家>の尼」の原文をあえて「名越の尼」としたり、また、「嫁の新尼」を「(誅殺された教時の妻)」と断定したりしており、困ったものですが、彼が主張するように、この尼が北条(名越)朝時(ともとき。1193~1245年)の未亡人だとすると、朝時の男の子供達は、下掲の通りであり、
 「北条光時 …… 嫡男。<1246年の>宮騒動で出家、伊豆へ流罪。
  北条時章 …… 次男。母は大友能直の娘。兄光時失脚後に名越流を継ぐ。<1272年の>二月騒動で誅殺、のちに無実と判明。
  北条時長 …… 三男。母は大友能直の娘。宮騒動以降、得宗に従う。
  北条時幸 …… 四男。宮騒動で自害。
  北条教時 …… 五男。母は北条時房の娘。二月騒動で誅殺。
  北条時基 …… 六男。得宗に従う。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%9C%9D%E6%99%82
江間は、この尼を北条時房の娘と見ていることになりそうです。
 そうだとすると、この尼の父親の北条時房は、母親不詳であるところの、北条政子・北条義時の異母弟ながら甥の泰時が執権になるのを指をくわえているほかなかった人物であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%88%BF
また、この尼の(1245年に病死した)亡夫の北条朝時は、北条義時の次男ながら比企家出身の正室の子で本来は義時の嫡男であったにもかかわらず、比企能員率いる比企氏が義時ら北条一族によって滅ぼされ、この正室が離縁されたことから廃嫡された人物であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%9C%9D%E6%99%82
彼女が、得宗家お気に入りの臨済宗や真言律宗を非難する日蓮に惹かれたとしても必ずしも不思議ではありませんし、それ以降も、彼女は、自分の子供達の悲劇を目の当たりにさせられるという、気の毒な人生を歩んだことになり、日蓮の物語の引き立て役としてうってつけのように見えないでもありません。

(続く)