太田述正コラム#13326(2023.2.25)
<江間浩人『日蓮誕生–いま甦る実像と闘争』を読む(その11)>(2023.5.23公開)

 しかし、江間自身も前出箇所で依拠している川添昭二は、ちと古いけれど、「日蓮宗内の傳説では、この領家を「名越の尼」とも「大尼」とも言ひ、名越朝時の後妻・・・であると傳へて居る。安房長狭郡はかつて和田義盛<(注32)>の領分であったのを、義盛滅亡後名越朝時が引継いだので、朝時死去の後其妻尼となつて領家の尼と稱したと<という>説<が>あるが如何であらう。朝時の知行に属して居たのは越中、越後の二國であり・・・、朝時の嫡男時章の大隅守護たりし事・・・等は知られ得るも、朝時が長狭郡の知行を如何様に兼帯して居たかは明らかでない。・・・朝時の妻は二人以上あつたらしく、一人は時章の母で大友豊前前司能直の女、一人は教時の母で時房の女であり、日蓮と関係づけるには此の二人では先づ難しい。・・・名越家の家臣で・・・日蓮の篤信者であつた四條金吾賴基と日蓮との関係が基礎になつて、日蓮と名越家との直接関係が門流内の傳説として漸次ひろめられて行つたのではないかとも考へられ<る>・・・。」(川添昭二「日蓮の宗教の成立および性格–鎌倉仏教研究序説–」(1955.11.20)より)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/2335097/p059.pdf
と、主張しており、私は、全面的に川添説乗りです。(太田)

 (注32)1147~1213年。「三浦氏の一族で源頼朝の挙兵に参加。・・・
 <ちなみに、>相模国三浦郡和田の里、あるいは安房国和田御厨に所領があったことから和田を姓とする。・・・
 鎌倉に頼朝の初期武家政権がつくられると初代侍所別当に任じられる。治承・寿永の乱では源範頼の軍奉行となり、山陽道を遠征し九州に渡り、平家の背後を遮断した。平家滅亡後は奥州合戦に従軍して武功を立てた。頼朝の死後、梶原景時の変での景時弾劾追放では中心的な役割を果たし、比企能員の変や畠山重忠の乱などの御家人の乱では北条氏に与した。しかし、2代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦うが敗死し、和田一族も滅亡した(和田合戦)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E7%BE%A9%E7%9B%9B


[妙法寺]

 「楞厳山(りょうごんざん)妙法寺は、1253年、布教のため安房国清澄寺から鎌倉入りした日蓮が最初に草庵を結んだ地と伝わっており、「松葉ヶ谷の法難」の草庵跡とされる比定地<(注33)>。後に後醍醐天皇の子息・護良親王の皇子であった楞厳丸(りょうごんまる)が日叡となり、1357年、父母の供養および日蓮の遺跡保護のために妙法寺を建てた。江戸時代になると徳川将軍家、徳川御三家、肥後細川家などからも帰依を受けている。

 (注33)ただし、ごく近隣の安国論寺、長勝寺も、それぞれ松葉ヶ谷草庵跡を称しており、すべて開山は日蓮、創建は草庵が置かれた<1253>年としている。・・・
 <なお、妙法寺の所在地は、>神奈川県鎌倉市大町(名越)<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E6%B3%95%E5%AF%BA_(%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82%E5%A4%A7%E7%94%BA) (☆)
 「鎌倉時代は初代執権北条時政が・・・名越・・・に館を構えたことから、「名越殿」と呼ばれた。『吾妻鏡』には、・・・1192年・・・7月、源頼朝が「名越殿」を訪ねたとの記述がある。・・・
 時政以来、この地には北条氏の邸宅があった。父北条義時の勘気を被って廃嫡となった北条朝時が、祖父時政の屋敷を継承した事により名越次郎を名乗り、名越流北条氏の祖となる。・・・
 また、問注所の執事であった三善康信の邸宅もこの地にあ<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E8%B6%8A_(%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82)

 [特に水戸光圀創建による水戸三昧堂壇林出身の第32世日応、第33世日慈が寺門隆盛に努め<た。(☆)>]
 総門、仁王門、法華堂が朱塗りであるのは、11代将軍・徳川家斉を迎えるためであったとされる。明治中期までは境内に将軍御成の間が置かれていた。本堂は文政年間に、夭折した息女を弔うために細川斉樹が建立したもの。・・・
 妙法寺 仁王門の脇に・・・、名越家供養塔と「薩摩屋敷事件」戦没者の墓<が>・・・ある・・・。1867年に江戸の芝三田で起きた薩摩屋敷焼き討ち事件で戦死した薩摩方と幕府方の遺骨を収めている。もとは芝三田の薩摩屋敷跡に建てられた清正公堂(妙法寺の支院)の境内にあったが1995年にここへ移された。・・・
 妙法寺境内にある法華堂<は、>文化年間に水戸家によって建立され、日叡作の除厄祖師が本尊。・・・
 開山した日叡上人の父母を供養する寺であるため、母(南の方)と父(大塔宮 護良親王)の墓がある。・・・
 [なお、護良親王の墓とされるものは鎌倉市二階堂の理智光寺跡にもあり、そちらが正式な墓として宮内庁管理下にある。・・・
 <また、>仁王門から釈迦堂跡に続く石段で、苔に覆われており、このため妙法寺は別名「苔寺」「苔の寺」とも呼ばれる。<(☆)>]」
https://www.pasonisan.com/rvw_trip/kanagawa/matubagayatu.html

⇒名越家供養塔をいつ誰が立てたのか書いてないので、何とも言えないが、日蓮宗の由緒ある寺にこういう供養塔があることは、いささか気にはなるが、単に妙法寺が名越にあることから、名越家に敬意を表しただけではなかろうか。
 ところで、面白いと思ったのは、ここに登場する妙法寺関係者のリストが、私の、大日蓮主義近現代日本史観を裏付けていることだ。

 どのように裏付けているかは、皆さんご自身で、関連過去コラム群を思い出しつつ、お考えいただきたい。(太田)

 
(続く)