太田述正コラム#2473(2008.4.8)
<皆さんとディスカッション(続x106)>
<読者SK>
私は趣味で30年程、政治言論を幅広く読んできたつもりですが、太田述正氏は、現代日本で最も貴重な言論者であると思っています。今後、氏の言論が一層拡がっていくことを心から期待しています。
<太田>
今年はTVだけではなく、出版予定の2冊の新著でも、皆さんに訴えかけて行きたいと思っています。
どうぞよろしく。
<コバ>
コラム#2472を読みました。
渡辺氏が副総裁になると民主党政権は遠のいてしまうのでしょうか・・。自民党の延命はもう勘弁です。
<太田>
いや、民主党もここは渡辺君を飲むべきでしょう。
ところで、なぜ白川氏の「昇格」が「天下り」なのか、説明が必要でしたね。
日銀の最高意志決定機関である政策委員会は、総裁(現在欠)、副総裁2名、審議委員6名(現在1名欠)で構成されていますが、このうち日銀出身者は、副総裁の白川氏1人です。現時点で言えば、7名の政策委員会メンバー中、日銀出身者がわずか1名ということは、日銀の最高意志決定から原則日銀出身者を排除する、という考え方で政策委員会のメンバーが選定されているということです。
とはいえ、最高意志決定機関の中に、金融政策の実務を行っている日銀の事務方出身者がいないと何かと不都合だということで、例外的に白川氏が副総裁という形で、政策委員会に入っていると私は理解しています。
そういう役割の人間が、政策委員会の議長に過ぎないとは言うものの、日銀の顔である総裁に就任するのは、通常の「昇格」でも「再就職」でもなく、まさに「天下り」であり、本来望ましいことではない、と私は考えます。(日銀職員はみなし公務員ですから、白川氏は元官僚だと言ってよいのです。)
渡辺君が日銀総裁になるとすれば、これは歴とした(財務省からの)天下りであり、当然これも本来望ましいことではないけれど、現在の政策委員の顔ぶれの略歴(
http://www.boj.or.jp/type/list/pb_member/pb.htm
)を見る限り、渡辺君は彼らを代表する日銀の顔にふさわしいと思った次第です。
さて、渡辺君の総裁の目がなくなった現在、今度は別の意味で渡辺君を副総裁に据える必要があります。
というのは、白川氏以外の現在の政策委員は、民間出身者4名(商社、証券、銀行、海運出身者各1名)、学者出身者2名(副総裁1名を含む)であり、政府(官僚機構)出身者、とりわけ金融問題に通じた政府(官僚機構)出身者が皆無だからです。
それなら、ヒラ(審議委員)でいいじゃないかって?
まあ、そこまで固いこと言わないでも・・。
<Ueyama>
先日のミニ・オフ会での話の続きになりますが、私は太田さんのこういうコラム(#2470「スコットランドと近代民主主義の起源(その1)」(未公開))が大好きです。
あれからちょっと見返してみましたが、最近だと、チベット騒擾や台湾総統選挙の話題、それから朝鮮日報関連なんかも興味深かったですね。
私は英語が不自由ですし、自分でそういった記事を見つけてくる気も全然ないので(もしかしたら太田さんがいなければ、やるかもしれませんが 笑)、ダライ・ラマに関するニューヨークタイムスの論考(#2439)なんて私には全くなかった視点で大変刺激的でしたし、太田さんの台湾の馬に対する評価(特に#2440-2)も、私自身は馬のことをあまり知らないながらも(イメージとは違いましたが)納得でき、朝鮮日報(ここしばらく全くチェックしていませんでしたが)に対するイメージなんてがらりと変わりました。
>a:私は政治等、現在のことには余り興味がない。そういうコラムは読み飛ばしている。面白いと思うのは昔の話だ。(コラム#2470)
と書かれてしまいましたが(笑。もちろんそのような表現をしたからですが)、「現在世界がどうなっているのか」や「過去どうだったから現在こうあるのだ」といった話には大変興味があります。しかし、特に日本の時事問題に関しては、あたごや守屋、それから(最近の)沖縄集団自決裁判コラムなんかを筆頭に、あまり(もちろん個人的に)興味のない話であった、というだけです。
ただし、政治の話は、これからどうするか、という話になるので、これについてはほとんどの場合(意見が右とも左とも、大抵の場合太田さんとも合わないので)詰まるところ興味がないといって差し支えありません。
ところで、
”It is in truth not for glory, nor riches, nor honors that we are fighting, but for freedom — for that alone, which no honest man gives up but with life itself.”
「われわれが戦っているのは栄光のためでも、富のためでも、名誉のためでもなく、ただただ自由のためなのだ。そしてこのためには、およそ誠実なスコットランド人であれば、命がかかっていたとしても決してあきらめることはないのだ」というくだりは、ありきたりとはいえ本当にすばらしいですね。
余談ですが、それが自由を志向するものである限り、スコットランドもチベットもバスクもコソボも、沖縄や北海道だって、たとえ北海道の主体がアイヌ民族であるとかないとか、そんなことは関係なく私は支持したいと思っています。
<太田>
コソボでの動きに刺激されて、ルーマニアのハンガリー系住民も自治を求めて活発に動き出したようですよ(
http://www.nytimes.com/2008/04/07/world/europe/07hungarians.html?_r=1&oref=slogin&ref=world&pagewanted=print
。4月7日アクセス)。
それにしても、自由のために独立を求める人々に強い共感を寄せるあなたが、「政治の話・・に興味がなく」、日本人であるわれわれの自由のために宗主国米国からの「独立」を訴えている点(?)等、「意見が・・大抵の場合太田さんとも合わない」とはこれいかに?
<関係者>
コラム#369「民主主義の理論(その2)」に出てくるPrzeworskiの正しい発音は「シェヴォルスキ」もしくは「ジェヴォルスキ」であって語頭のPは発音されません。英語圏でも政治学・政治経済学の専門家の内ではこちらで統一されています。
<太田>
2006.5.21に別の方から、「プルゼヴォスキではなく、プシェヴォルスキです。英語圏でも後者の発音で統一されております。」という投稿をいただいています。
一体どっちが正しいんじゃい!
ところで、このコラム#369を読み直したら、大統領制は反民主主義的だと書いてましたね。
コラム#2472(未公開)で、大統領制は民主主義的であるという趣旨のことを書いたばかりなので、これは何だとお叱りを受けそうですね。
そこで先回りして弁明しておきましょう。
米国が独立後に導入した、世界最初の大統領制は、民主主義的に見えて実は反民主主義的制度だったのです。
女性や奴隷以外の有権者が大統領選挙人を選ぶという間接選挙で大統領を選出する点だけをとっても、これは、スコットランド独立宣言当時の貴族達による国王の選出という疑似民主主義的発想を踏まえたものだと言えないでしょうか。米国の場合、それでも安心ができず、三権を分立させ、大統領を議会と裁判所が監督をするという反民主主義的なしくみを導入したのですから、いかに米国建国の父達がホンモノの民主主義を警戒していたかは明らかでしょう。
大統領制が名実ともに民主主義的制度になったのは、米国において、大統領の選出が(実質的に)直接選挙となり、かつ行政権の優位が運用上確立した後のことなのです。
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太田述正コラム#2473(2008.4.8)
<英米軍事トピックス(その1)>
→非公開
皆さんとディスカッション(続x106)
- 公開日:
読者SKとして、とりあげていただきありがとうございました。ご著書は大変素晴らしい内容でした。ほっとしたのは、あの岡崎久彦氏と太田さんが同根でなく対極ともいえる思想上の位置であったことです。集団的自衛権の考え方が似ていたので心配しておりました。日頃より岡崎氏の長いものにまかれろの論理には抵抗があったので溜飲がさがる思いでした。あらためて、太田さんの言論を支持させていただきたいと思います。