太田述正コラム#2100(2007.10.2)
<朝鮮戦争をめぐって(その6)>(2008.4.11公開)
 孫文が中華民国大総統の座を譲った袁世凱(Yuan Shikai。1859~1916年)に宋教仁を殺され、反袁蹶起にも失敗して日本に亡命した孫文は、1914年に中国革命党をつくるのですが、党員になるにあたって孫文に忠誠を誓わされた上、厳しい規律を押しつけられたため、それまで孫文と行動を共にしてきた同志達の多くはこれは非民主的であるとして入党を拒んでいます。 
 その後支那に戻った孫文は、1917年に広州(Guangzhou)政府をつくります。
 これは軍事独裁政府であり、孫文は大元帥(Generalissimo)としてこの政府に君臨するのですが、1918年に孫への反発が起きて内閣制が採用され実権を失うと、孫文は広東を去ります。
 孫文は翌1919年に今度は、「国民党」ならぬ「中国国民党」(以後、紛らわしいが「国民党」と呼ぶ)をつくります。
 そして広州に再び政府をつくった孫文は、1920年にソ連の支援を仰ぐこととし、ソ連の指示に従って、国民党をソ連共産党と瓜二つの形態にし、爾後国民党はこの形態を台湾に逃げ込んでからも1990年代まで維持することになります。
 また、やはりソ連の指示に従って、創設されてから日が浅かった中国共産党(以後「共産党」と呼ぶ)とも協力関係を結び(第一次国共合作:1924~27)、共産党員は党員のまま国民党員になります。
 この頃孫文が盛んに唱えていたのが「連ソ容共」です。
 この国民党が1924年に採用したのが孫文の、民族主義(nationalism。韃虜(清)の駆除・中華の回復)・民権主義(democracy。民国の建立)・民生主義(people’s livelihood。地権の平均)からなる三民主義(Three Principles of the People)です。
 民族主義は危険なナショナリズムの旗を掲げたということですし、民権主義とはその実、一党独裁下の民主集中制を意味していましたし、民生主義に至っては、孫文自身、中身をつめずに終わってしまっています。
 この時点では国民党は、ファシスト的要素と共産主義的要素が未分化な民主主義独裁政党であったと言えるでしょう。
 さてこの間、蒋介石(Chiang Kai-shek。1887~1975年)は孫文の指示により、1923年にソ連で軍事と政治の研修を受けた後、1924年に、広州の近郊に開校した黄埔軍官学校(Whampoa Military Academy)の校長に就任していました。
 1925年に孫文が病死すると、跡を継いだ蒋介石は、その翌年の1926年、国民党からソ連の顧問達を追放し共産党員を国民党幹部から排除し、更に支那統一を目指して軍閥を征伐する北伐(Northern Expedition)を開始します。
 翌1927年、この北伐の過程で蒋介石は上海で、そこに党本部を置いていた共産党に対し血の弾圧を行うとともに、国民党政府の首都を広州から南京(Nanjing)に移転します。
 ここに国民党は、共産主義的要素が排除されたファシスト政党となり、軍閥との内戦に加えて、共産主義政党(スターリン主義政党と言ってもよい)たる共産党とも内戦を行いつつ支那統一を目指すこととなり、それに第三勢力たる日本がからむ形で支那の歴史が進行していくことになるのです。
 蒋介石の国民党がファシスト政党であった証拠として、国民党は亡くなった孫文を神格化し、一党独裁制/民主集中制を引き続き堅持するとともに、資本家に対する優遇政策をとり、かつ1928年から始まったドイツとの軍事協力を、1933年のナチスのドイツ権力掌握以降も、1938年にナチスドイツ側から解消されるまで継続したことが挙げられます(注4)。
 (注4)ナチス党員のドイツ人ラーベが南京事件当時、南京で「大活躍」したことを想起せよ(コラム#253、254、256、259参照)。
 しかし蒋介石は、結党の経緯もあって容共勢力を抱えていた国民党からこれらの勢力を完全にパージすることに成功せず、このこともあって共産党との対決姿勢に一貫性を欠き、1936年の西安事件(Xi’an Incident。コラム#178、187、234、256)を契機として第二次国共合作(1937~45年)が成立したために共産党を壊滅させる機会は永久に失われ、日本の敗戦後の国共内戦に敗れ、台湾に逃走することになるのです。
 私が国民党を容共ファシスト政党と呼ぶゆえんがお分かりいただけたでしょうか。
 この国民党は極めて腐敗したファシスト政党でもあったことを付言しておきます(コラム#177~179参照)。
 (以上、事実関係は、特に断っていない限り
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%96%87
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_Republic_of_China
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B0%91%E4%B8%BB%E7%BE%A9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3
http://72.14.235.104/search?q=cache:M5CWzXmjN7wJ:www.history.gr.jp/nanking/books_shokun0204.html+%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%EF%BC%9B%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%85%9A%EF%BC%9B%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E9%A1%A7%E5%95%8F&hl=ja&ct=clnk&cd=3&gl=jp
(10月1日アクセス)による。)
 それでは、どうして国民党政権との戦争が日本の自衛戦争であったのでしょうか。
(続く)