太田述正コラム#13336(2023.3.2)
<江間浩人『日蓮誕生–いま甦る実像と闘争』を読む(その16)>(2023.5.28公開)

⇒江間が触れていない、日蓮の画期は、日蓮が法華経だけで教義を構成したことです。
 こういうことです。
 悟りを開く方法は、雑阿含経(ぞうあごんきょう)、四分律(しぶんりつ)、首楞厳経(しゅりょうごんきょう)に記されており、
https://true-buddhism.com/teachings/awakening/
以下の三学が必須とされています。↓
 「戒学(かいがく)-戒によって身口意(しんくい)の三業(さんごう)が清らかになり、禅定に入りやすくなる。
  定学(じょうがく-禅定を修めることで、慧が得られる。
  慧学(えがく)-智慧(パンニャー)を修めることで漏・煩悩が排され、解脱智見が得られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AD%A6
 しかし、日蓮が、定学や慧学に言及したことはなさそうであって、そのことは、日蓮は、法華経以外が記すところの、悟りを開く方法論には関心がなかったことを推認させます。
 なお、仮に関心があったとしても、「止観」・・止が定学(禅定)、観が智慧に相当する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A2%E8%A6%B3
・・のうちの「止」しか支那/日本仏教には伝わっていない(コラム#省略)ことから、日蓮はこの方法で悟るための具体的な方法を知りえなかったわけであり、日蓮はうすうす、それは、法華経以外の漢訳経典の中には書かれてないことに気付いていたのではないでしょうか。
 そこで、日蓮は、いわば、法華経が説く悟りの方法に決め打ちをした、というわけです。
 すなわち、「法華経には、悟るためには法華経を信じて実践することが必要だと書いてあ<る>」(コラム#13311)ところ、「第5品「根本依品」では、釈迦仏が過去世で王子として自らの身体を餓鬼に施した話が<出てくるし、>・・・第20品「普賢菩薩勧発品」では、普賢菩薩が無数の利他的行為を説いてい<るのであり、>」(上掲)・・・具体的には、「法華経を信じて実践すること<、>法華経を書写・読誦・講義・受持すること<、>法華経を広めること<、>法華経の修行者を尊敬・供養・守護すること<、>慈悲心を持って衆生を救済すること」を促しています(上掲)。
 日蓮は、「慈悲心を持って衆生を救済すること」・・私の言葉に置き換えれば、人間主義的実践をすること・・以外については、ひとまとめにして、ご本尊を前に題目を唱えることへと簡略化することで、人間主義的実践の重要性を引き立てている、というのが私の見立てです。
 いや、大乗仏教は、そもそも利他行の仏教ではないのか、という反論が予想されますが、それは、あくまでも、基本的には、自分が出家して、悟ろうとし、或いは、悟った、だけではダメなのであって、自分が出家しているか在家のままであるかを問わず、また、悟っているか悟っていないかを問わず、出家、在家を含めた他人全員、万人、がことごとく悟ることができるよう努力をする、という意味での利他行なのであって、世俗的な利他的行為(人間主義的行為)を行わなければならない、ということでは必ずしもありません。
 そのことは、以下の諸記述を読めば分かるのではないでしょうか。↓

 「大乗教徒は、仏教徒にとって根本的に無意義なものと理解されてきた生に対して、それを修行の場と捉え直すことで肯定的な意味を与えることに成功した。」
http://jare.jp/admin/wp-content/uploads/2017/05/sasaki-religion-ethics08.pdf
 「<そして、>自己のうちに仏となりうる可能性(仏性)を認め,それを体現する<ためには、>・・・他人に対する善きはからい(利他行(りたぎよう))を第一の眼目と考えた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%88%A9%E4%BB%96%E8%A1%8C-1436028
 「<すなわち、>菩薩(bodhisattva)は、古くは「悟りが確定している者」の意味で、悟りを得る(成道)前のブッダに対して使われた。しかし、大乗仏教では、「悟りを求める者」と解釈され、大乗の信者が自分たちをさして用いるようになる。そして、・・・「利他行」を行う者という菩薩の理想像が形成された。」
https://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/daijo.htm
 「大乗仏教<では、>・・・従前の仏教諸派の超世俗的態度を排斥して、・・・世俗的な在家の生活のうちにあって真の仏道を実践すべしという態度を表明している。・・・
 <具体的には、>民衆のあいだに根強かった呪術的要素をとりいれることによって、<仏教を>一般民衆のあいだにひろ<げ>た。・・・
 <その際、>諸仏・諸菩薩を熱心に信仰して念ずることを強調するために、多数の仏像が製作された。」
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1656
 「<こちらは、>ギリシャ文化の影響<と思われるところ、その結果、>仏教は・・・偶像崇拝的性格を持つようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%83%8F

 その上で、私は、大乗仏教は、現世利益を売りとするところの、呪術的、偶像崇拝的宗教として始まったのであり、当初は、利他行とは、この宗教を民衆の間に広めることを意味した、と考えているのです。

(続く)