太田述正コラム#2108(2007.10.6)
<ギリシャ文明の起源(その2)>(2008.4.16公開)
最新の研究で分かってきたことは以下の通りです。
フェニキア人は平和的な人々であり、造船に長け、紀元前2,500年頃までには切石(ashlar-cut stone)造りの巨大な建物や壁を建造するとともに、地中海の海上交易を支配するに至っていた。
ところがその頃から凶暴なアモリ人(Amorite)(注4)がフェニキアにも襲来したのだ。
(注4)紀元前3,000年代後半以降にユーフラテス川以西全域を支配したセム系の遊牧民であり、もともとはアラビア半島に居住していたという説が最近では有力(
http://en.wikipedia.org/wiki/Amorites
。10月6日アクセス)。
フェニキア最大の都市であった、地中海東岸のビブロス(Byblos)は二度にわたってアモリ人に襲われ、紀元前2,000年頃に廃墟になってしまった。シドン(Sidon)も同じだった。
まさにこの時期にクレタの宮殿文明が立ち上がっているのだ。
これは偶然とは考えられない。
ミノア人の書き言葉は線形A(Linear A)と呼ばれるものだが、これがセムに起源を有することが以前から知られている。
仮にミノア人がフェニキア人だとしたら、当然のことではないか。
また、ミノア文明のフレスコ壁画には一人の兵士も、一人のいかめしい顔をした支配者も登場しない。
登場するのは良い暮らしを満喫している幸せで平和な人々ばかりだ。
これもフェニキア人の社会にそっくりだ。
フェニキア人は戦いよりも交渉に長けており、陸軍を持っていなかった。これは当時の地中海世界では異例のことだった。
フェニキア人は周辺の人々と融け合うことを好んだので、最大の交易相手であるエジプトの文物・習慣は特に好んで取り入れた。
だから、クレタ島でエジプトの産品やエジプトの模造品が多数発見されたり、エジプト的な衣装や建築や埋葬方法が見出されるのは少しも不思議ではない。
更に、ミノア人とフェニキア人は、当時の地中海交易を競い合っていたはずだが、両者の海軍が交戦したという記録はギリシャにもエジプトにも存在しない。
他方、ギリシャ人とフェニキア人との戦いは枚挙に暇がないのであって、ペルシャ戦争、ペロポネソス戦争、シチリア島の支配をめぐる戦争、のいずれにもフェニキア海軍が登場する。
このことも、フェニキア人とミノア人が同族だとすれば説明がつく。
さて、ミノア社会は、紀元前1628年頃のサントリーニ島の大噴火から始まる一連の自然災害によって大きな被害を受けていたところへ、紀元前1500年頃から1450年頃にかけてのミケーネ人のクレタ島襲来によってトドメを刺されたわけだが、ミノア人は一体どこに逃げたのだろうか。
地中海東岸のティレ(Tyre)、シドン(Sidon)、ビカイ(Bikai)等の都市では紀元前約1425年に人口定着が見られる。
その後これらの都市は、急速にフェニキアの交易センターへとのし上がって行った。
これらの都市の住民は、ミケーネ人から逃れたミノア人だったと考えるのが順当だろう。
(以上、特に断っていない限り
http://www.phoenician.org/minoans_phoenicians_paper.htm
(10月5日アクセス)による。)
4 終わりに
バナールのギリシャ文明起源論がいかなるものか、ご理解いただけたことと思います。
ところで、岸田秀氏は、精神分析を人間ならぬ人間集団に当てはめるという手法で有名な人物だそうですが、「バナールは「ギリシャ文明はヨーロッパオリジナルではない」というが、そもそもギリシャ文明と今のヨーロッパ文明は無関係である。ギリシャ人だったアリストテレスの著作をヨーロッパの古典とするのは、孔子の『論語』を日本の古典と称するに等しい。他人のものを自分のものとするのは一種の横領である。」という趣旨のことを、最近出た著書『嘘だらけのヨーロッパ製世界史 』(新書館)の中で述べているといいます(
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070904/133983/
。9月26日アクセス)。
私自身の考えは、この岸田氏の考えとやや似ているのですが、次のようなものです。
ギリシャ文明は、大乗仏教の成立にも強い影響を与えたし、イスラム文明にも継受されている部分もあるけれど、何と言ってもギリシャ文明が最も強い影響を与えたのはローマ文明だ。ローマ文明は、ギリシャ文明にキリスト教的要素が付加されたものだ。
欧州文明は、このローマ文明にゲルマン的要素を取り入れて成立した。
他方、アングロサクソン文明は、ローマ文明の影響をほとんど受けておらず、もっぱらゲルマン的要素で成り立っている文明だ。よって、アングロサクソン文明はギリシャ文明の影響は全くと言ってよいほど受けていない。
最後に蛇足です。
私はエジプトで少年期を過ごし、また、レバノン、ギリシャ本土(2回)、クレタ島、サントリーニ島を訪問したことがあるので、このシリーズを書きながら、昔のことを思い出し、大変懐かしい思いがしました。
それにしても、アングロサクソンの歴史学者達の健闘ぶりには脱帽するほかありません。
(完)
ギリシャ文明の起源(その2)
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