太田述正コラム#13340(2023.3.4)
<江間浩人『日蓮誕生–いま甦る実像と闘争』を読む(その18)>(2023.5.30公開)
「・・・日蓮は、当初、自らの仏法上の立場について、釈迦の法華経を、釈迦滅後の像法時代に中国で広めた天台大師、日本の伝教大師に連なる正統な僧と位置付けていました。
ところが後には、釈迦が説いた法華経の文脈からみれば、日蓮は教主釈尊の久遠からの弟子であり、釈迦仏法の末法に五文字の法華経流布を託された菩薩である、と述べて、威音王仏→不軽菩薩→釈迦→日蓮の系譜に移しています。
どうして、このような変化があったのか。
この謎については、今後、答えに迫りたいと思います。」(204~205)
⇒私の言葉を用いた、私の取敢えずの答えは、
日蓮は、
一 当初は自身を釈迦の弟子だと思っていたが、やがて、釈迦と「対等」な存在であると思い至り、
二 法華経は、
(一) 悟りや方便等に係る真理を記述している、のであり、
例えば、
(二) 仏は必要に応じ方便を用いつつ、人々を悟らせようとする、とか、
(三) 方便は相手に応じ、かつ時代に即して用いられなければならないので、仏は何度も登場する、とか、
記述していると見、
三 釈迦は、瞑想等による悟りのみを説いたと見たが、それは当時のインド亜大陸(天竺)ではほとんどの人が悟っていなかった(=利己主義者であった)ため、であろうと考えられるのに対し、自分(日蓮)は、同時代の日本では既にほとんどの人が悟っている(人間主義者である)上(無理して利己主義者を演じているところの)武士まで存在しているので、この武士の武力に守られつつ、法華経に記述されているところの、他人を悟らせる最上にしてしかも簡単な方法であるところの、人間主義者相互の、または、人間主義者の非人間主義者に対する、世俗的な利他的行為(=人間主義的行為)の実践を見聞させること、を、外国に出かけ、(その大部分が非人間主義者であるところの)外国人達に対して行うべきだ、と、もっぱら説くこととし、方便は題目唱道の奨励程度にとどめることにした、
[日蓮の思考過程の推測]
「円仁は最後の遣唐使となった承和の遣唐使にしたがって入唐し、十年間にわたって<支那>に滞在し<た>・・・間、道教に心酔した武宗高弟の仏教大弾圧を・・・体験し<ている。>・・・
<そして、1254年に一旦成立し、後年増補がなされたところの『古今著聞集』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E8%91%97%E8%81%9E%E9%9B%86 >はその序<で>・・・『宇治大納言物語』<等>をうけつぐものだと・・・いっているが、その編纂の精神には大いに異なるものがある。<なぜなら、>『古今著聞集』の部立ては、これまでと一変して、まず最初に「神祇」が来、そのあとに「釈教」の部が置かれている<からだ>。<この2つの部>は、しかしまだ上下の秩序ではなく、並列の関係にあるといってもよいであろうが、神を仏の上に位置させようとする意図がわずかながら仄めいているといってよい。・・・<例えば、>釈迦の出現は日本の地神五代の末の時代と<し>ている<ところだ>。『古今著聞集』にみるこのような姿勢は、<その後の>鎌倉後期のさまざまな説話集において、・・・次第に日本の特殊性を強調する、あるいは、仏法の仏法としてあるのもわが神の力であるとする傾向において引き継がれる。」
http://ajih.jp/backnumber/pdf/16_02_01.pdf
「<これは説話集ではないが、室町初期の、>例えば北畠親房は『神皇正統記』において天竺の国家や国王の起源を説明し、それに対して日本は万世一系の国であることを強調して日本が優れていることを強調した。そして吉田家出身の慈遍<は、>『旧事本紀玄義』に展開される日本を種根、<支那>を枝葉、天竺を果実とする根葉果実論<を展開した。>」
http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/93598/1/dt-ko-0256.pdf
⇒日蓮自身、日本と違って、天竺も支那も王朝の変遷が見られるが、これは、治世が利己的(非人間主義的)に行われているからであろうと思われ、支那でその利他性(人間主義性)への弾圧であるところの、仏教への弾圧が行われたりするのであろうところ、だからこそ、宋もまた、蒙古によってその運命は風前の灯となっている・・宋(南宋)が滅びたのは1279年、日蓮が亡くなったのは1282年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%AE%8B と※
・・、と、考えたのではなかろうか。(太田)
四 威音王仏(弟子達を含む)も不軽菩薩(弟子達を含む)も釈迦(弟子達を含む)も、全て、結局は失敗した・・釈迦は、人間主義的なインダス文明の担い手だった(と推定されている)ドラビダ人
https://kotobank.jp/word/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%93%E3%83%80%E4%BA%BA-1380263
・・アーリア人がインド亜大陸に侵入してきた時にインド亜大陸南部へと逃げられなかったドラビダ人は原住民としてアーリア人に支配され虐げられて生きていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88
・・から、瞑想(止観)によって悟る(人間主義者化する)方法を聞き出した、と私は想像している(コラム#省略)ところ、この方法で悟った人を増やし、悟る過程や悟ってからの人々を保護するため、これらの人々からなる共同体(仏教教団)を形成することとし、方便として、かかる共同体を物的に支援し、武器で守ってくれれば、現世や来世で功徳がある、と、近辺の諸国の国王を含む権力者達を説得し、それに一定程度成功したと想像されるが、この方法では、早晩、これら国王等も、仏教教団によって感化されて人間主義的になってしまいがちであり、その場合、貧国弱兵化を招き、遠方の非人間主義的勢力によって滅ぼされてしまうことになり、教団がこの新しい勢力を同じ方便によって説得できなかった場合は、教団自身が存亡の危機に直面させられた、と私は見ている(コラム#省略)ところ、日蓮は、(すぐ上の囲み記事でも書いたように、)天竺でも、支那同様、分裂や王朝の変遷があることは知っていて、天竺では非人間主義的統治、すなわち非仏教的統治、が続いているという認識を持っていたと思われる・・が、自分(日蓮)(弟子達を含む)こそは成功すると信じ、成功させなければならないと決意した、
といったところでしょうか。
(続く)