太田述正コラム#2114(2007.10.9)
<魔女狩り(その1)>(2008.4.21公開)
1 魔女狩り
 欧州やイギリス(含む英北米植民地)で魔女狩りが最も盛んに行われたのは1450年頃から1700年頃にかけてであり、宗教改革や30年戦争の時期と重なっています。
 魔女狩りを通しても浮かび上がってくるのは、アングロサクソン文明と欧州文明の違いです。
 魔女狩りで死刑に処せられた人々(主として女性)の総数は、35,000~54,000人と推計されていますが、英国は4,000~5,000人、英北米植民地は36人であったのに、フランスとドイツとスイスだけで、それぞれ5,000~6,000人、17.300~26,000人、4,000~5,000人にも達するのです。
 それぞれの国または地域の総人口を考えるまでもなく、魔女狩りは主として欧州での出来事であったことが分かります。
 ちなみに、スコットランドでは1,100~2,000人であり、スコットランドの人口がおおむねイギリスの10分の1で推移してきていることからすれば、これだけからでもスコットランドは欧州文明に属すると言えそうですね。
 (ただし、アイルランドでは4人しかいないことは興味深いものがあります。ひょっとするとアイルランドはアングロサクソン文明に属するのかも。)
 どうしてアングロサクソン文明と欧州文明とでこのような違いが出てくるかと言うと、前者には陪審制度があり、起訴には23人からなる大陪審(grand jury)の評決が求められ、更に有罪宣告には12人からなる小陪審(petit jury)の評決が求められるため、起訴、有罪宣告が簡単にはできなかった上、拷問がほとんど認められなかった(国王の承認が必要であり、イギリス史を通じて81の承認しか与えられなかった)のに対し、欧州では地域によって様々であったとはいえ、どこでもおおむね裁判官の力が強く、拷問が行われる頻度も高かったことが挙げられます。
 なお、魔女と認定されると原則として死刑に処せられましたが、イギリスでは絞首刑にしてから焼いたのに対し、欧州では生きながら焼殺するのが通例でした。
 (以上、
http://en.wikipedia.org/wiki/Witch-hunt
(10月9日アクセス)による。)
 この際、アングロサクソン文明と欧州文明の魔女狩りの興味深い事例を一つずつご紹介することにしましょう。
2 サーレムでの魔女狩り
 (1)事件の概要
 英北米マサチューセッツ植民地のサーレム(Salem)の町等で1692年と1693年に魔女狩り裁判が行われ、150人以上の人が魔女の容疑で逮捕・拘留され、うち29名が魔女と認定され、そのうち19人(女性14人・男性5人)が絞首刑に処せられました。このほか1人の男性が、魔女であるかどうか回答を拒否したため石載の拷問を加えられ圧死させられており、また、少なくとも5人が獄中で死亡しています。
 (以上、
http://en.wikipedia.org/wiki/Salem_Witch_Trials
(10月9日アクセス)による。)
 この魔女狩りの背景には、北米植民地の人々を取り巻く厳しい環境があったと考えられています。
 彼らは、インディアンや海賊やフランス人からいつ攻撃を受けるかという恐怖に怯えるとともに、イギリス本国との関係や植民地の地域政府の債務に頭を悩ましていたのです。
 (2)シーウォルについて
 サミュエル・シーウォル(Samuel Sewall。1652~1730年)は、イギリスで生まれ、1661年にマサチューセッツに移住し、ハーバード大学で学んだ人物であり、1692年と93年のサーレムでの魔女狩り裁判に関与した9人の裁判官のうちの1人です。
 シーウォル自身、自分の子供が次々に夭折するという苦しみを味わっていたさなかにこの裁判に臨んだのです。
 やがて、この裁判への批判が人々の間で起こってきます。
 そして、マサチューセッツ植民地のフィプス(William Phips)総督は、自分の妻にまで魔女の嫌疑がかけられるに至って、魔女裁判目的で設置された特別裁判所(court of Oyer and Terminer)(
http://en.wikipedia.org/wiki/Oyer_and_terminer
)を1693年に廃止します。
 シーウォルは、人々が抱いていた上述の公的不安や(シーウォル自身が抱いていたような)私的悩みが魔女狩りを生んだことに思い当たったに違いないのです。
 1697年に、彼は魔女裁判において判事として無辜の人々を死に至らしめてしまったとの懺悔を記した紙を神父に会衆の前で読んでもらいます。
 このような懺悔をしたのは、上記の9人の裁判官中、シーウォルだけです。
 そして、自らへの罰として、以後、粗麻の下着を身につけることにするのです。
 更にシーウォルは虐げられた人々のために声をあげ始めます。
 ニューイングランド地方でさえも、当時5つに1つの家族が奴隷を所有していましたし、インディアンは野蛮人と蔑まれ、女性は男性の付属物扱いでした。
 シーウォルは、自分を黒人隔離論者としつつ、黒人も同じ人間であると主張したのです。これだけでも、当時のマサチューセッツ植民地では画期的なことでした。
 1717年にシーウォルはマサチューセッツの首席裁判官に任命されますが、マサチューセッツでアメリカ大陸最初の司法権の独立が確保され、政教分離が実現し、これらが北米植民地全域に広まっていく礎を築いたのはシーウォルだったのです。
 (以上、特に断っていない限り
http://www.nytimes.com/2007/10/07/books/review/Wald.html?ref=review&pagewanted=print
(10月7日アクセス)、
http://www.csmonitor.com/2007/1009/p25s01-bogn.htm
http://breenibooks.blogspot.com/2007/10/review-salem-witch-judge-by-eve.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Samuel_Sewall
(いずれも10月9日アクセス)
(続く)