太田述正コラム#2435(2008.3.20)
<チベット騒擾(続々)>(2008.4.25公開)
1 チベットの範囲
 「甘粛省甘南チベット族自治州で15日からチベット族による暴動が起き、政府庁舎や学校が襲撃され、商店が焼き打ちされたと報じた。19日・・同州で約200人が参加したデモ行進が起きたと<いう報道もある。> 四川省アバチベット族・チャン族自治州紅原県でも18日、約100人が地元政府庁舎までデモ行進。掲揚されていた中国国旗を引きずり下ろし、チベットの旗を掲げたという。また、・・同自治州アバ県で16日に行われたデモで20人が死亡した<ことは前回紹介した>。」(
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080319-OYT1T00902.htm
。3月20日アクセス(以下同じ))
 このようにチベット自治区(Tibet Autonomous Region=TAR)以外でも騒擾が広がっているわけですが、チベット自治区とこれら地域とはいかなる関係にあるのでしょうか。
 
 「現在約半数のチベット人はTARの外・・多くは近接する中共の諸省やネパール、インドと行った周辺諸国・・に住んでいると推定されている。おおざっぱに言えば、TARは1912年にチベットは独立した共和国であると宣言した13世ダライラマが統治していた地域と合致している。このチベットは支那が1950年に部隊を派遣して権力を及ぼした1950年代に至るまでの間独立国家として機能した。・・青海省の97.2%はチベット自治地域<である一方で、>・・チベット人は青海省の総人口の約25%を占めている。四川省の約半分、甘粛省の10%、雲南(Yunnan)省の10%も同様チベット自治地域に指定されている。・・<これら地区と地域は>政治的には一体ではないが、社会的には一体なのだ。・・1956年から1959年にかけてのチベット蜂起の間、ラサの政府は手を拱いていたが、青海省での戦闘はすさまじいものだった。天安門広場における虐殺を予示したとも言われるラサにおける1980年代末の騒擾は、やはり他の地域に広がった。だから、チベット動向観察者にしてみれば、3月10日にラサで起きた抗議行動が数百マイル離れた地域において劇的に爆発したことは不思議でも何でもないことなのだ。」(
http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/7304825.stm
2 漢人とチベット人の間の反目
 チベット自治区や上記地域では、チベット人は都市のチベット人ゲットーと祖先伝来の地における貧しい村に住んでおり、漢人と交流することはありません。
 チベット人は漢人は政治的・経済的に優遇されてると見、他方漢人はチベット人が怠け者で恩知らずであり宗教にうつつを抜かしていると見ているところ、チベット人と漢人の経済格差には大きいものがあります。
 また、チベット人は中共政府が彼らの宗教的自由を侵害していること、就中中共政府の、彼らの精神的指導者であるダライラマへの扱いに憤りを持っています。
 (以上、
http://www.nytimes.com/2008/03/20/world/asia/20tibet.html?_r=1&hp=&oref=slogin&pagewanted=print
による。)
 チベット自治区やチベット人地域以外の漢人のチベット観はどうなのでしょうか。
 中国共産党に強く反対している知識人すら、中共のおかげでチベット人は奴隷的・飢餓的状態から解放されたと思っており、それに対し感謝どころか暴力で答えるとはけしからんと憤っています。
 また、チベットが支那から独立するなどということは絶対に許さないという点では、漢人の間でコンセンサスが成立しています。
 漢人とチベット人の間の反目は、漢人が宗教に関心を向け、従って仏教にも関心を向け始めたことから、ここ数年緩和する傾向にあったのですが、今回の騒擾によって再び反目が激化することは避けられないでしょう。
 このことは、ダライラマにとっても、漢人の間にチベット仏教を普及させる戦略をとってきただけに、痛手です。
 (以上、
http://www.ft.com/cms/s/0/229ac4d6-f5d8-11dc-8d3d-000077b07658.html
による。)
3 ダライラマについて
 (1)元首兼教主のダライラマ
 72歳のダライラマは「治世」68年に及ぶ、今や地球上で最も年季の入った元首です。
 実に、英国のエリザベス女王、タイのプミポン国王、キューバのカストロよりも「治世」が長いのです。
 彼が元首の地位に就いたのは4歳の時であり、第二次世界大戦中の7歳の時にはチベット経由の軍事物資の輸送問題を協議しに来たローズベルト米大統領の使節を迎え、11歳の時にはラサ内外における戦いを経験し、15歳になるまでには名実共にチベット人の政治的指導者となり、毛沢東と交渉を行い、1959年、23歳の時には中共の圧力下で一斉蜂起寸前の状態となったチベット脱出してインドに亡命し、そこでチベット人のための民主的憲法を策定し、この憲法にダライラマに対する弾劾規定を盛り込みました。そして時代遅れの煩雑な儀典を廃止し、やがて、女性が博士号を取得したり僧院長になったりできるようにするとともに、僧院での教科に科学を取り入れるといった改革を断行し、亡命チベット人の子供達に10歳まではチベット語で、それ以降は英語で教育を行うこととしたのです。
 また、チベット仏教の普及にも尽力し、その結果、欧米におけるチベット仏教センターは1968年には2箇所しかなかったところ、今ではニューヨークだけで40箇所を超えるに至っています。台湾には20箇所以上あります。そしてフランスでは仏教徒がプロテスタントやユダヤ教徒よりも多数になりました。
 5年前、ダライラマは、30年後にチベット(区域及び地域)に住むチベット人が600万人、そして漢人の(チベット)仏教徒が1,000万人になったとすれば、悪くないではないか」と語ったものです。
 (以上、
http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1723922,00.html
による。)
 (2)コメント
 悩ましいのは、ダライラマがチベット人という特定の民族の元首であると同時に、超チベット人的な宗教の教主でもあることです。
 教主としての彼は、漢人、とりわけチベット仏教徒たる漢人とチベット人との平和的共存共栄を提唱せざるをえないわけですが、これは必ずしも、彼が元首であるところのチベット人にとってハッピーな成り行きではありません。
 それどころか、中共政府は漢人とチベット人との平和的共存共栄の追求ではなく、チベット人の漢人への同化・・チベット文化の破壊・・を追求しており、教主として堅持せざるをえない非暴力主義では、元首であるところのチベット人が激しく反発しているところのこの中共政府の政策を覆すことができない、と来ているのです。
 結局、チベット人もまた、政治と宗教の分離を課題としてつきつけられている、と私は考えます。
 現在72歳のダライラマに残された時間はわずかです。
 彼がこの課題に取り組むことは焦眉の急だと思います。