太田述正コラム#13346(2023.3.7)
<江間浩人『日蓮誕生–いま甦る実像と闘争』を読む(その21)>(2023.6.2公開)

 「なぜならその人は、自分は他人とはちがう特別な悟りを得た「特別な存在になりたい」という優越欲求を、釈迦に投影しているにすぎないのです。
 それは「なんとかして人々を仏にしたい」と苦悶する釈迦とは異質で、まじわることがないからです。」(267)

⇒私に言わせれば、それは釈迦の方が悪いのであって、江間が、釈迦の弟子達の方を責めるのはお門違いというものです。
 「万人は同じく仏になれる」と(法華経の記述の通り)本当に釈迦が思っていたのかどうかはさておき、釈迦の弟子達にとっては、釈迦が示したと思われる、仏(人間主義者)になる方法、であるところの、出家して(=世俗を離れ、家庭生活を捨てて)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%AE%B6
集団生活を営みつつ止観(=サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想)を行う、という方法は、仏になるのに、長期にわたる努力と時間を要し、その間、在家から布施を受ける
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E6%96%BD
必要がある上、自分達の安全もまた第三者によって確保されなければならないことから、一部の人々にしか実行不可能であって、そうである以上は、この方法をとって仏になろうとすること自体が「特別な存在にな<る>」ことを意味したことは明らかだからです。
 なお、釈迦や釈迦の弟子で仏(人間主義者)になった人々、すなわち成仏者達、が、恐らく気付いていなかったのは、未成仏者だが仏的ではあるところの弟子達、や、この成仏者達、がそのまま出家を続けようと、(当初は想定されていなかったのではないかと思いますが、)自ら還俗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%84%E4%BF%97
しようと、それまで自分達に布施したり安全を提供したりしてくれていた人々も、自分達を見倣って仏的な人間になろうとしがちであり、彼らがその結果仏的な人間になってしまった途端に、自分達も彼らも、仏や仏的なものに関心のないそれ以外の集団から安全を脅かされ、蹂躙されしまい、その結果仏も仏的な人間も絶滅してしまって、全ては元の木阿弥になってしまう可能性が大きいことです。
 以上を踏まえた上で、大事なことなので、改めて、日蓮の思考過程を、(耳タコかもしれませんが、今まで記してきたこととの重複を厭わずに、)大胆に想像し、再整理してみるとこんな感じになるのではないでしょうか。↓

 日蓮は、(観(ヴィパッサナー瞑想)の具体的なやり方についての説明が漢文経典群の記述から抜け落ちている<(注49)>ことに彼が気付いていたかどうかはともかくとして、)釈迦は、以上のような次第もこれあり、結局、非仏性(非人間主義)社会の仏性(人間主義)社会化に失敗したのであったところ、その原因は、釈迦の唱えた、個々人が仏(人間主義者)になる方法(悟る方法)が難度の高いものであったことから人間主義者の増加が遅々たるものであったこと、に加えて、人間主義集団を内生的に守る方法・・人間主義集団内にその集団の安全を確保する小集団を形成するという方法・・も考えつかなかったからである、という結論を下した。

 (注49)この私の理解が正しいかどうか、検証してもらえるとありがたい。
 上座部仏教(南伝仏教)では、10世紀までに、(サマタ、ヴィパッサナーを問わず、)瞑想が行なわれなくなった
https://en.wikipedia.org/wiki/Samatha-vipassana
とか、「日本においては江戸時代以前に伝来した仏教は<支那>経由であったため、大乗仏教以外は流布しなかった。それらの瞑想法としては、真言宗の阿字観、天台宗の止観や、臨済宗や曹洞宗の坐禅などが長らく主流であった。そのため近代になっても、欧米と異なり、・・・(上座部仏教起源の)「・・・ヴィパッサナー瞑想」は・・・普及しなかった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%8A%E3%83%BC%E7%9E%91%E6%83%B3
とか、くらいしか、私は手掛かりを得ていない。

 そして、その上で、仏になる方法は、(法華経の記述を信じればだが、)釈迦自身が示唆していた、ように、人間はそもそも仏性(人間主義性)を持って生まれてくるのだから、日本社会のように、周りが概ね仏(人間主義者)ばかりであれば、その社会で育った人間が、非仏(非人間主義化)化しそうになる都度、それに、自分で気付いたり、他人から注意されて気付いたりすることで、反省し、基本的に仏(人間主義者)であり続けることができる社会が現実にある以上、日常的に日本人と交流したり日本社会を観察できる環境を外国人達のために作ってやれば、彼らのうちの少なからぬ部分は自発的に日本人を見倣って仏(人間主義者)になるだろうし、日本人がその外国の権力を掌握して、或いは、その外国の以上のようなことを自覚した権力者が、支配下のその外国人達に対して、日本人を見倣うように「強制」すれば、仏(人間主義者)になる割合は更に増え、時間の経過とともにその割合は増え続けて、ついには、その社会が日本に似た社会へと変貌を遂げることが期待できる、と考えた。

(続く)