太田述正コラム#2463(2008.4.2)
<先の大戦正戦論から脱する米国?(続)(その1)>(2008.5.5公開)
1 始めに
 コラム#2410と2412でベーカーの本を紹介し、ロサンゼルスタイムスの絶賛と言ってもよい書評に言及しつつ、「今後の米国における波紋に注目したいと思います。」と結びました。
 その後、コラム#2410で、ニューヨークタイムスに書評が出たけれど、「ガンディー流非暴力主義でヒットラーに対処すべきであったとしているベーカーの所論の弱点だけをもっぱら攻撃する、という幼児的書評であるところに、東部リベラルに与えたこの本の衝撃がうかがい知れます。つまり、書評の中に日本の話が全然出てこないのです。」と記したところです。
 その後、クリスチャンサイエンスモニターが書評でとりあげ(
http://www.csmonitor.com/2008/0318/p16s01-bogn.htm
。3月18日アクセス)、次には何とニューヨークタイムスは再び書評で取り上げた(
http://www.nytimes.com/2008/03/23/books/review/Toibin-t.html?pagewanted=print 。3月22日アクセス)と思ったら、今度はワシントンポストが、これまた2度にわたって書評でとりあげました(
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/03/27/AR2008032703082_pf.html  
(3月30日アクセス)、及び
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/03/31/AR2008033102149_pf.html 
(4月1日アクセス))。
 私が予想した通り、この本は強烈な衝撃を米国の知識人に与えているわけです。
 そこで、日本人の眼で新しく出てきたこれらの書評の書評を行ってみましょう。
2 書評の書評
 (1)クリスチャンサイエンスモニター
 この書評も、上記ニューヨークタイムス書評同様、日本の話から逃げまくり、わずかに「日本は戦闘的な警告を何度も発したけれど<米国は>聞く耳を持たなかった」という、どちらかというと日本の肩を持ったセンテンスだけでお茶を濁しています。
 (2)ニューヨークタイムス(2度目)
 2度目のニューヨークタイムス書評には期待したのですが、その期待は裏切られました。
 この書評は、英空軍が、当時陸軍相兼空軍相であったチャーチルの積極的同意の下で1920年にイラクで一般住民に対する戦略爆撃を始めたこと、1925年にはインドで150トンもの爆弾を投下する同様の戦略爆撃をおこなったこと、当然チャーチルが首相であった第二次世界大戦中、ドイツに対して同様の戦略爆撃が行われたこと、しかし、この戦略爆撃はドイツの一般住民の士気を低下させたり、彼らを対ナチスに対する蜂起へと誘うどころか、ユダヤ人迫害を促進させただけであったこと等を踏まえ、ベーカーは一般住民に対する戦略爆撃は正当化できないということを見事かつ情熱的に証明したとしつつ、米国の日本への原爆投下には全く口を拭っていたからです。
 それに、日本に触れたのは、「ベーカーは、ローズベルトは米国を参戦させることを目的として、日本を真珠湾を爆撃させるよう駆り立てたと言いたいがために数々の断片的典拠(vignett)を提示している」というくだりだけです。
 つまり、1度目の書評と全く同じなのであって、ニューヨークタイムスは、日本に関しては逃げの一手を決め込むことに決めた、と私は受け止めた次第です。
 (3)ワシントンポスト(1度目)
 ワシントンポストの1度目の書評を読むに至って、私は、こんなニューヨークタイムスでも、相対的には良心的であると思い知りました。
 というのは、ワシントンポストのこの書評は、日本とナチスドイツを同一視するところの、ステレオタイプ化された第二次世界大戦観を所与のものとしてこの本の批判を行ったからです。
 すなわち、
 「米国と英国の市民はアジアを日本に、欧州をドイツに割譲するつもりであれば、あの戦争は「不必要であった」可能性を弄ぶことはできたかもしれない。しかし、他の参戦国にとっては、あの戦争は不可避だった。何となればこれらの国は日本とドイツの人種的帝国主義の進路に位置していたからだ。これに比べるとベーカーの第二の問題提起、すなわちあの戦争は助けを必要とした人々を助けただろうか、はちとむつかしい。というのは、あの戦争がもたらしたところの現実の惨禍(evils)<中略>と日本とドイツが欲したことを欲しただけの期間自由にできた場合にもたらされたであろう惨禍とを比べなければならないからだ。果たして、ヒットラーに対して宥和政策をとった場合に比べてヒットラーに抵抗する方がより大きな害悪(harm)が生じたとする平和主義者達は正しいだろうか。」
と。
 それにしても、この書評はこずるいと思いませんか。
 最後のセンテンスのヒットラーを東條に置き換えることができないことをどうやら承知しつつ、はたまた、ヒットラーを日本に置き換えた場合にはこのセンテンスが甚だしく迫力を欠くものになることを間違いなく承知しつつ、それまで日本とドイツを対で論じてきたというのに、ここではドイツだけへの言及にとどめているのですから・・。
 (4)ワシントンポスト(2度目)
(続く)