太田述正コラム#13356(2023.3.12)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その4)>(2023.6.7公開)
「日付がかわって5月16日<月曜>、午前10分頃。
5人の青年将校は三宅坂の陸相官邸に着いた。
荒木陸相は首相官邸に赴いて留守であった。
かわりに真崎甚三郎参謀次長(陸軍中将)が「オレではいかんか」と出てきて、将校たちに応対した。
菅波らは、事件で「弱腰になる」かもしれない「海軍の尻を叩いても、この際一気に革新に向かうべきである」と、懸命に説いた。
その間30分ばかり。
真崎はできるかぎり善処する、荒木陸相にも伝えると答え、青年将校たちに「十分自重せよ」と要望した。
さらに青年将校らは、陸相官邸の奥の部屋に通された。
そこには、小畑敏四郎(おばたとしろう)少将(参謀本部第三部長)と黒木親慶<(注14)>(ちかよし)元少佐(荒木陸相の私設秘書、青年将校の窓口)がいた。
(注14)1883~1934年。陸士(16期)、陸大(24期)。「日露戦争に出征。大正2年士官学校教官。3年参謀本部に入り、4〜7年第1次世界大戦中のロシアに駐在。シベリア出兵にあたり、7年から参謀本部付ないし第3師団司令部付として、反革命派のセミョーノフ軍の顧問を務めたが、陸軍中央部がセミョーノフ支援を中止したため、8年解任、帰国。参謀本部付となり、翌9年・・・少佐<で>・・・退役、三六倶楽部会長に就任した。」
https://kotobank.jp/word/%E9%BB%92%E6%9C%A8%20%E8%A6%AA%E6%85%B6-1644290
陸軍大学校卒業生一覧の中に、親慶という名前の者はいない。
但し、「第7期<(明治24年)>卒業生までは全ての卒業生を掲げ、以後は成績優秀者及び主要なる人物を掲げた。」という性格の一覧だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8D%92%E6%A5%AD%E7%94%9F%E4%B8%80%E8%A6%A7 前掲
小畑少将は、残念そうな口調でこう言った。
「今夜の事件は残念至極だ。もっといい方法で、革新の実を挙げるよう、政友会の森恪(つとむ)らとともに着々準備を進めていたんだ。すべては水泡に帰した…」
菅波は「閣下、今時そんなことを言っておる時期ではありません!」と反駁した。
自重は停滞である、ここで軍が退けば、満ソ国境はたちまち危うくなる。海軍によって投げられた一石の戦果を拡大すべきだと、菅波らは繰り返し説いた・・・。
⇒荒木貞夫、真崎甚三郎、小畑敏四郎、は肝胆相照らす、皇道派仲間であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%95%91%E6%95%8F%E5%9B%9B%E9%83%8E
こんな「有事」にもかかわらず、可愛い「弟子」達に、最高の場所で面会してやったわけです。(太田)
陸相官邸には、永田鉄山少将(参謀本部第二部長)も現れた。
永田は、青年将校に向って「士官候補生を使嗾してやらしたのはお前達だろう、なぜお前達も一緒にやらぬか、お前達は非怯だ」と言い放った。
陸軍青年将校は、永田の言に憤激した。
なんという罵詈、なんという侮辱か。
永田は三月事件(前年の陸軍中堅幹部たちによるクーデター未遂事件)の黒幕でありながら、自己欺瞞の塊ではないか。
冷酷な表情、誠意なき叱責、とても耐えられるものではない。
一度は期待を寄せた永田に対して、青年将校らは深く怒り、失望した。
⇒永田鉄山は、後に、いわゆる統制派の雄と目されるに至る画期たる、参謀本部第2部長時代の1933年(昭和8年)に、同第3部長になっていた小畑敏四郎との衝突・・永田は対支一撃論、小畑は対ソ準備を唱えた・・、を引き起こすことになる(上掲)ところ、この時の2人の対照的な対応ぶりは、そのことを予感させるものがありますね。
なお、いわゆる統制派は島津斉彬コンセンサス・・つまりは、秀吉流日蓮主義・・の流れを汲み、皇道派は横井小楠(だけ)コンセンサスの流れを汲む、と、この際、私見を付言しておきましょう。
それにしても、陸軍の青年将校ら、昭和農業恐慌による農村の窮状
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E8%BE%B2%E6%A5%AD%E6%81%90%E6%85%8C
のことなど全く話題に出さなかったようですね。(太田)
議論を重ね、まだこれからというときに、青年将校の所属する各部隊の長から、呼び戻しの命令が来た。
5月16日午前<(ママ)>2時40分過ぎ、将校らは陸相官邸を退出した。」(31~32)
(続く)