太田述正コラム#13358(2023.3.13)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その5)>(2023.6.8公開)

 「・・・藤井斉・・・が3歳のとき、<父親の>炭坑の経営が破綻して零落。
 幼い斉は母・・・の父・山口万兵衛に預けられた。・・・
 斉が8歳のとき、祖父万兵衛が死去する。・・・
 <そして、その子の>半六<が>・・・小学1年から中学4年まで斉を育てた。・・・
 山口半六は・・・中学を出て、三井物産に就職。
 家業の石炭海運業を継ぐために<故郷>へ戻ったが、若い頃は中国駐在員として広東に渡り、革命を志す青年たちと交わった。・・・
 斉の「アジア主義」的思想は、幼き日に受けた半六からの影響が強かった。・・・
 佐賀中学に進学し・・・<そこ>でも優秀な成績を修めた斉に、半六は東大法学部から外交官への道を勧めた。
 だが斉は承服せず、海軍兵学校への進学を決意して、半六を押し切った。
 1922年(大正11)8月、斉は海軍兵学校へ入学。
 成績は3番であった。・・・
 藤井が入学する年の2月に、日米など主要国海軍の主力艦保有量を制限するワシントン海軍軍縮条約が調印された。
 そのため、それまで250名の定員があった兵学校は、藤井の入学した53期から一挙に50名へと削減される。
 学生は士気を欠き、教官はだれ気味で、校長は「辞めたい者は辞めてもよい」と語った。
 もはや海軍に未来はない。
 中途退学する者が後を絶たなかった。
 その兵学校のなかで、昂然として気概にあふれた学生が2人いた。
 藤井と、その親友となった小手川勝彦である。
 その頃の藤井を、級友が詠んだ歌がある。
 小身はすべて是胆あから顔 人射る眼 頭ビリケン
 君の見し我日の本は汚れたる 乱臣賊子はびっこれるくに
 説き来り説き去るところ雲を呼び 空翔けり行く大亜細亜主義・・・
 一号生徒(最上級生・4年生)となった藤井斉は、学年の代表として鈴木貫太郎軍令部長(海軍中将)の前で演説を行うことになった。
 1925年(大正14)春のことである。
 そこで藤井はワシントン海軍軍縮条約の非を訴え、白人が支配する世界の不合理を糾弾し、将来は日本が盟主としてアジアの諸民族を束ね、白人優位の秩序を打破すべきだと熱弁をふるった。・・・
 同年4月に兵学校へ入学したばかりの古賀清志も、藤井の演説に感じ入った一人であった。・・・
 素朴な大アジア主義を唱えていた藤井斉が、思想的に国家改造へと近づいていくのは、海軍兵学校卒業の前後であった。
 卒業の前、1924年(大正13)末の冬休みに、藤井は東京へ行き、かねてから敬愛していた頭山満に会う。・・・
 さらに藤井は西田税を大学寮に訪ねた。
 西田は元陸軍軍人で、大川周明・北一輝らと交友をもち、この頃には大川が創設した国家主義団体「行地社」<(注15)>で機関誌『日本』を編集し、大川らが主宰する「大学寮」(地方の青年や学生らに国家主義を教えた)の講師を勤めるなど、国家改造運動の普及に努めていた。」(37~40)

 (注15)「大川周明<は、>・・・1923年の猶存社の解散後、北一輝の「日本改造法案大綱」の思想を継承するべく、1924年4月、当時の東京市南青山で創立<し>た。・・・
 やがて社会教育研究所を設立し、1924年1月には月刊「日本精神研究」(社会教育研究所)を発刊し日本主義、大アジア主義思想を鼓舞して1925年8月には大阪行地社をも設立した。他にも京都をはじめ主要都市に支部を設立した。また東京帝国大学・京都帝国大学内に学生行地社を設けた。
 翌1925年4月には綱領を掲げ、機関誌「日本」を刊行。1925年7月号(4号)には大川の作詞した社歌「則天行地」も当初は満川亀太郎、笠木良明、安岡正篤、西田税、等の猶存社の主要メンバーが集まった。この陣容のため当時は最有力の国家主義団体とされた。
 1925年の安田生命争議、宮内省怪文書事件を機に大川派と北派との対立が表面化し、分裂した。西田税と満川亀太郎は脱退して北の傘下に入り、安岡正篤は金鶏学院の設立に向かい、綾川武治・中谷武世は上杉慎吉門下の天野辰夫と結び、笠木は南満州鉄道大連本社に行った。社内には大川周明の他は狩野敏らのみが残った。北・大川両派の分裂により、陸軍内の尉官級青年将校は北派に、佐官級少壮将校は大川派に結びついていった。
 大川は旧知の人脈によって大日本帝国陸軍の中心部、特に参謀本部の中堅将校に積極的に働きかけ、板垣征四郎、橋本欣五郎、花谷正らが講演・寄稿によって参加した。また多くの青年将校を「月刊日本」の読者として獲得し、大日本帝国陸軍内に思想的影響を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%9C%B0%E7%A4%BE

⇒私が記したような、「社会教育研究所/大学寮で<は>陸海軍の若手将校達への秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサスの注入(コラム#13094)」を行っていた、的なところまで、なかなか踏み込めないのは分かりますが、上掲のウィキペディアの執筆陣が大川が設立した、だの、小山が「大川らが主宰する」、だの、と記すのは、さすがに理解に苦しみます。
 大学寮が宮中がからんだ公的な機関であったことは、設立された場所や、主として教育したのが陸海軍大学校学生達であったことからして、紛れようのない事実なのですからね。
 とまれ、この時、藤井は、西田によって、杉山構想遂行グループの使い捨て走り使い達の元締めとしてリクルートされた、というのが私の見方です。(太田)

(続く)