太田述正コラム#2118(2007.10.11)
<ナチスの犯罪と戦後ドイツ(その2)>(2008.5.10公開)
3 ナチの黒人迫害
 20世紀までに、ドイツはアフリカにいくつか植民地を持つに至っており、ドイツ領東アフリカではドイツ人医師達が遺伝学的な実験を住民に対して行ったという指摘がしばしばなされています。
 当然、アフリカ人のドイツ本国への若干の流入がありました。
 また、第一次世界大戦でドイツが敗れると、フランスがラインラントを占領しますが、フランス領のアフリカ人も多数占領軍に交じっていました。
 このため、ドイツの女性との間に数百人の混血児が生まれます。
 ヒットラーは『わが闘争』の中で、彼らのことを「ラインラント私生児達(Bastards)」と呼んでいます。
 ナチスが政権をとると、1937年までにアフリカ人との混血児はことごとく断種・不妊手術を施されます。
 先の大戦が始まるまでには大部分の黒人や上記混血児は逃亡しますが、残った人々は全員収容所送りになり虐殺されました。
 (以上、
http://observer.guardian.co.uk/world/story/0,,2170159,00.html
(9月17日アクセス)による。)
4 反省していないドイツ
 以上、余り知られていない、ナチスドイツによるホロコースト事例をご紹介しましたが、ユダヤ人迫害にせよアフリカ人迫害にせよ、決してナチスドイツの「病理」がもたらしたドイツ史における逸脱現象ではないのであって、18世紀末から19世紀初頭以来、ドイツの大部分の考古学者や歴史学者が抱いたところの人種差別的歴史観(コラム#2106)という「生理」の論理的帰結であった、という点を、この際強調しておきたいと思います。
 ホロコーストがドイツの「生理」であったということは、しばしば、先の大戦における蛮行について反省も謝罪もしていないと非難される日本と対比して語られるところの、十二分に反省し謝罪しているドイツ、という物語もまたフィクションに他ならない、ということです。
 
 イスラエルの歴史学者のマルガリット(Gilad Margalit)博士の言(
http://www.haaretz.com/hasen/spages/896794.html
。8月26日アクセス)の言うところに耳を傾けてみましょう。
 
 先の大戦末期になり、敗戦間近になると、ドイツ人達はホロコーストについて集団的罪悪感を抱くようになった。
 ところが、その後連合軍はドイツの都市に戦略爆撃を行うようになり、1945年2月の13日と15日に行われたドレスデン爆撃だけで約35,000人が死んだ。
 ドイツがやらなかった無差別爆撃という罪を連合国は犯したとドイツ人達は受け止め、ホロコーストに対する罪悪感を無差別爆撃の犠牲者意識で相殺しようとした。
 つまり、「アウシュビッツ=ドレスデン」というわけだ(注2)。
 (注2)5,500万人もの人々を死に至らしめたナチスドイツは可及的速やかに打倒する必要があったのであり、連合軍が無差別爆撃を行ったことはやむを得なかったのではないか、という発想はドイツ人達には求め得べくもない。
 戦後になると西独では、敗戦後東欧から何百万人ものドイツ人が追放されたのは連合国の合意によるものであったというのに、これをもっぱらソ連のせいにし、追放によってドイツ人が受けた苦しみとナチスがユダヤ人を強制収容所送りにしたことに対する罪悪感とを相殺しようとした。
 つまり今度は、「ナチス=ソ連」というわけだ。
 他方東独では、上述した「アウシュビッツ=ドレスデン」論が更に深められていく。
 今や西独もその一員となった西側が、東独を含むところの東側に対し、究極の無差別爆撃であるところの核兵器攻撃をかけようとしている、というのだ。
 1960年代中頃になると、ホロコーストに対する罪悪感が再びドイツ人達の間で高まる。
 アンネの日記が出版されたり、ナチスの戦争犯罪人達の裁判がフランクフルトで1963年から65年にかけて行われ、大々的に報道されたからだ。
 その結果ドイツ人達の間で、ユダヤ教徒になったり子供にユダヤ人の名前をつけたり、イスラエルを訪れてキブツに参加したり、といったことがはやった。
 しかし、大多数のドイツ人はホロコーストに対する罪悪感から逃れるために、ヒットラーとナチスの中核メンバーだけに罪をなすりつけ始めた。
 東独では何と、ドレスデンの墓地に無差別爆撃を受けたドイツの都市7つと強制収容所7つを意味する14の石柱を建てた。(ドレスデンの石柱とアウシュビッツの石柱は向かい合わせに建てられた。)そして、この場所で毎年記念式典が行われるようになったのだ。
 西独では、「ナチス=ソ連」論と「アウシュビッツ=ドレスデン」論が綜合され、1952年から、第一次世界大戦及び先の大戦並びにナチスによる全ての犠牲者・・ユダヤ人、ドイツ人、一般市民、兵士等ありとあらゆる犠牲者・・を追悼する式典が毎年行われるようになっていた。
 この式典は、ドイツ以外でドイツ兵士の集団墓地のあるところ、例えばパレスティナのナザレ、でもナチス時代の軍人やSS要員等の臨席の下で行われた。
 ドイツ統一以降も引き続きこの式典は、行われている。
 ドイツ統一によって唯一変わったことと言えば、ドイツ・ナショナリズムが復活したことだ。
 ドイツ人達は、統一によってついに先の大戦が完全に終わったと感じ、もはやポーランド人やロシア人に気兼ねすることなく、もちろん賠償までしてやったユダヤ人にも気兼ねすることなく、ドイツだけの観点から過去の歴史を語ることができるようになったと思うようになったのだ。
5 終わりに
 厚顔無恥、汝の名はドイツ人、と言いたくなりますね。
 これに比べて何としおらしい日本人なのでしょうか。
 いずれにせよ、ドイツはドイツ、日本は日本です。
 今後とも先の大戦に関し、ドイツに比べれば物の数ではないとは言えど、日本も反省し謝罪すべきところが少なからずあったことを忘れないようにしましょう。
(完)