太田述正コラム#13360(2023.3.14)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その6)>(2023.6.9公開)

 「西田は陸軍将校と早くから交流があり、『日本』は若手の軍青年将校にも広く読まれていた。
 藤井による最初の西田訪問は、藤井の卒業後のことと思われる。
 以来、西田と親交を深めた藤井は、急速に国家改造運動へ傾斜していく。
 陸軍出身の西田を通して、藤井は北一輝の思想を知り、行地社への出入りも始まった。・・・
 大川は、列強の走狗となった日本にアジアの盟主たる資格はないと考え、アジアの解放のためには、まず日本の改造が必要と結論した。
 1918年8月、大川は「猶存社」を結成し、さらに上海で『国家改造案原理大綱』<(注16)>(以下『大綱』)を執筆していた北一輝に会い、北を日本に連れ戻して指導者に迎えた。

 (注16)「北一輝<は、>・・・1919年(大正8年)に・・・『国家改造案原理大綱』を発表した。これが1923年(大正12年)に加筆修正されて『日本改造法案大綱』に改題されたのが本書である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%94%B9%E9%80%A0%E6%B3%95%E6%A1%88%E5%A4%A7%E7%B6%B1
 その内容は、『国体論及び純正社会主義』の内容(下出)と基本的に同じ。
 違うのは、「朝鮮は軍事的見地から独立国家とすることはできない。・・・オーストラリア、シベリアなど<を>・・・将来獲得する<。>・・・文化水準によっては民族にかかわらず市民権を保障する。そのためには人種主義を廃して諸民族の平等主義の理念を確立<す>・・・る。帝国内の公用語としてエスペラントを採用する。・・・徴兵制は永遠に維持する。北は戦争を開始するためには自衛戦争だけでなく、二つの理由がありうるとする。それは不当に抑圧されている外国や民族を解放するための戦争であり、もう一つは人類共存を妨げるような大領土の独占に対する戦争である。・・・<そして、世界政府を樹立する。>」(上掲)くらいか。

⇒大川周明が、1916年に、「日本が日英同盟を重視して、イギリス側に立つことを批判し、インドの現状を日本人に伝えるべく・・・『印度に於ける國民的運動の現状及び其の由来』・・・を執筆<した>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%91%A8%E6%98%8E
ことを、当時、インド駐在武官であった杉山元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
は熟知していたはずであり、仮に、杉山が、1918年に日本に帰国した時に、牧野伸顕から、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス完遂計画立案を(貞明皇后に代わって)命じられたとするならば、まず、彼が、リクルートした人々のうちの1人が、民間工作担当要員含みたる大川であった、と、私は見るに至っています。
 これを受けて、さっそく、大川は、このような背景を明かさないまま、「列強の走狗となった日本にアジアの盟主たる資格はない」などと心にもないことを広言しつつ、受け皿として猶存社を設立した上で、北を大物の使い捨て走り使いとしてリクルートした、とも。(太田)

 北一輝は弱冠24歳で『国体論及び純正社会主義』<(注17)>を自費出版(発禁)し、その後は大陸へ渡り、中国革命運動に参加した人物である。

 (注17)1906年(明治39年)5月9日刊行。「まず、北は進化論の観点から人類は相互扶助の精神によって生存競争の対象を家族から部族、国家単位へと進歩してきたと論じ、その間に社会的同化作用によって内部の団結力を強化することで社会を進化させてきたと説いた。そして、国家は君主が主権を有する「君主国家」から国家自身が主権を有する「公民国家」へと進化するとして、明治維新を日本における「君主国家」から「公民国家」への一種の「革命」であると論じた。ところが、大日本帝国憲法において天皇を「万世一系」としたのは、日本の皇室の史実に反する上、憲法改正手続に帝国議会の賛同を規定したのは、「公民国家」を天皇と帝国議会が共同で運営する「民主政体」によって運営することを前提にしていると主張した。この観点からして国家主義者の国体論は反革命思想であり、日本の国家のあり方に反すると非難した。更に・・・「公民国家」の発展強化のためには普通選挙を導入して労働者と農民が政治に参加して合法的に社会主義体制を確立する。その上で国内では生産手段を国有化して資本家と労働組合が協調することで最高の生産性を確保して国民生活の向上に努め、最終的には国家全体の強化につなげるというものであった。
 本書は直ちに発売禁止にされたため、西欧社会民主主義を国家主義に結び付けようとした北の発想はほとんど知られることなく終わった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BD%93%E8%AB%96%E5%8F%8A%E3%81%B3%E7%B4%94%E6%AD%A3%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9

 だが革命は失敗に終わり、大陸で排日運動が高まる様子を目の当たりにした北は、「そうだ、日本に帰ろう。日本の魂のドン底から覆して、日本自らの革命に当たろう」と決意し、日本革命のための綱領として<上海にて>『<国家改造法案>大綱』を著していたのである。
 大川・北を中心とする猶存社は、<この>『<国家改造法案>大綱』を革命のバイブルとして、国家改造をめざす実践団体となった。
 『大綱』は改造の具体的方法として、軍隊によるクーデターを提示した。
 天皇の大権を発動して憲法と議会を停止し、全国に戒厳令を布く。
 そのうえで特権階級の政治機構(貴族院、枢密院、華族階級など)を廃止し、普通選挙を実施して、私有財産を制限する。
 過酷な労働を規制し、福祉や教育を充実させ、弱者の人権を重視する。
 その方向性は「平等」にあった。
 国内では貧富の格差を縮め、さらに国外では、英米列強の軍事・経済・思想的な挑戦に対抗して、列強の支配に甘んじるアジアの植民地を開放する。
 国際社会と国内社会の双方を革新し、国内外ともに平等な世界をめざす点が、従来の国家主義運動と異なる猶存社の新しい側面であった。」(42~45)

⇒何と言うことはない、日本が武装放棄して米国の属国になってしまったことを除けば、この全てが概ね実現したわけですよね。
 北の『国家改造法案大綱』を密かに読む機会があった杉山元が、その内容を高く評価し、大川を通じて、『日本改造法案大綱』というタイトルに変更させた上で出版させた、と、私は見ているところ、その内容のほぼ全てが、戦後の主権「回復」に至るまでの間に実現したのは、杉山構想完遂戦争が概ね成功裡に遂行された以上、当然であったと言うべきかもしれません。(太田)

(続く)