太田述正コラム#13362(2023.3.15)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その7)>(2023.6.10公開)

 「1920年、『大綱』はガリ版刷でごく少数が頒布された。
 そして早くもその翌年、1921年に最初の「行動者」を生んだ。
 安田財閥の長、安田善次郎を刺殺して自害した朝日平吾<(コラム#10035)>は、北一輝の『大綱』に強く感銘を受けて、遺書を北に届けるよう言い遺した。
 また『大綱』に感激を覚えた西田税も、『大綱』の完全な形での流布を強く願い、1923年に改造社から『大綱』が『日本改造法案大綱』と改題して出版されたのちも、26年と28年に西田自身が編集する形で改版の刊行に携わった。
 大川は行地会(翌年に行地社と改名)を結成する。
 西田は北に師事しながら、大川の行地社にも属した。
 だが安田共済事件<(注18)>(大川が同社の労働争議で解雇された門人を擁護したところ、北が安田側に立って交渉し報酬を受けた)で、北と大川の関係はさらに悪化する。

 (注18)「1925(大正14)年の春に、安田保善社(安田共済生命会社)で起きた争議事件。争議によって大川周明の門人を含む40数名が解雇され、大川や北一輝が仲裁を依頼されて交渉中に、北が安田保善社の副社長・結城豊太郎から3,000円を受け取り、争議団を裏切ったとされる。
 事件をきっかけに、大川は北が手段を選ばずに資金を集めようとする点を嫌い、北と訣別。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E7%94%B0%E5%85%B1%E6%B8%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 西田は1925年末に行地社を出て、北のもとにつき、宮内省怪文書事件<(注19)>(北・西田が怪文書を配布し、御料地木材の払い下げで不正があったとされる牧野伸顕宮内大臣らを糾弾した)を起こして、翌年11月に収監された。

 (注19)「西田税が『牧野内大臣、関屋宮内次官、東久世内匠頭等の大逆不敬事件』なる小冊子を大正15年5月にばらまいたことから始まった事件である。・・・
 日露実業会社の副社長田辺熊一を<・・誰が?(太田)・・>誘惑して同社から引き出させた八十万円の金が、元老松方正義、宮内大臣牧野伸顕、・・大正8年4月から11年6月まで同社の社長だった・・市来乙彦その他宮内省の巨頭連に贈賄されたことが糾弾されている。・・・
 日露実業の役員(推定)だった・・・増田正雄・・・が「何とかせなければなるまい」と三千円を用意して、・・・赤池濃・・・に渡し、赤池は沼波武夫を通じて、北に渡そうとしたが、北は四谷の待合に逃げ込んで金を受け取ろうとしなかったという。」
https://jyunku.hatenablog.com/entry/20090810/p1
 「北<は、この事件で>・・・懲役5か月の実刑を受けた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E4%B8%80%E8%BC%9D-50819

 大川は当時、牧野伸顕に接近して関係を深めつつあり、北や西田の行動を批難した。
 ここで、北・西田と大川の対立は決定的となった。
 これを機に大川は、北との関係を危ぶんでいた陸軍や宮中からの警戒を解かれ、陸軍内で佐官級・将官級の幕僚将校との接触を強めていく。
 他方で釈放された後の西田は、1927年(昭和2)7月に「天剣党」<(注20)>を設立し、陸軍内の尉官級を中心とした少壮・青年将校らを組織化しようと試みた。

 (注20)「西田税<が、>・・・1927年・・・7月ころ,士官候補生の卒業式に際して《天剣党規約》を配布<。>」
https://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E5%A4%A9%E5%89%A3%E5%85%9A%E8%A6%8F%E7%B4%84%E3%80%8B-1373972
 「1929年に西田が「天剣党規約」なる趣意書を起草・配布したが、実際の組織創設には至らなかった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E5%89%A3%E5%85%9A-1827964

 西田の手による天剣党主意書には、同党を「軍人を根基」とした「全国の先頭的同志を連絡結盟する国家改造の秘密結社」として、北一輝の「『日本改造法案大綱』を経典とせる実行の剣」と位置付ける文がある。・・・」(45~46)

⇒「大川は<1925年>当時<に>、牧野伸顕に接近し<た>」のではなく、1918年から、牧野/杉山の指示を受けて言動を行っていたと私は見ているところ、私は、北がカネに弱い点を衝いて、まず(日蓮宗信徒であった)北(コラム#10049)を、次いで(秀吉流日蓮主義者で北に私淑していた)西田(注21)を、逐次、野に放ち、その上で、藤井斉等を通じて、正誤織り交ぜた諸情報を意図的かつ巧妙にこの2人に与えていくことによって、彼らや彼らのシンパ達をして、杉山構想の推進に資するような結社を作ったり陰謀に携わったり暴発をしたり、をせざるをえないように誘導していった、と、大胆に想像するに至っています。

 (注21)「大正4年(1915年)10月、耳疾のため21歳で死去した・・・西田より六歳の年長で・・・あった兄<は、>・・・大西郷のような人物になれと励ました<し、>・・・西田<は、>・・・日蓮の立正安国論を愛誦<していた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E7%A8%8E

 なお、大川へのカネは、「大川やその他日本改造主義者たちの経済的パトロンであった・・・徳川義親から金銭的援助を受け<る>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%91%A8%E6%98%8E 前掲
形で、陸軍から流された、と私は見ているところです。(太田)

(続く)