太田述正コラム#13370(2023.3.19)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その11)>(2023.6.14公開)
「そのなかでも重要であったのは、大洗護国堂の井上日召と門下の青年たちとの出会いであった。 日召は日蓮宗に帰依した僧侶だが、父は神風連(じんぷうれん)の乱(1876年の熊本で起きた士族反乱)に参加し、自身は中国に渡って天津駐屯軍の通訳やスパイを務めた元大陸浪人であった。
⇒「井上日召<は、>・・・日蓮宗の信者<で、>僧侶風の名のりだが全くの自称によるもので、正式の僧侶となったことはな<く、>いわゆる「近代日蓮主義運動」の思想的系譜に連な<る>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%97%A5%E5%8F%AC
というのですから、日召は僧侶ではありません!
また、神風連の乱は、旧肥後藩士族の反乱であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%A2%A8%E9%80%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1
ところ、井上二三雄と井上日召の父親は群馬県士族らしい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E4%BA%8C%E4%B8%89%E9%9B%84 前掲
ので、この父親が神風連の乱に参加した、というのも誤りである可能性があります。(太田)
大陸で前田虎雄<(コラム#13018)>・・・などと知り合った日召は、帰国後に本間・前田らと新日本建設同盟を設立。
禅僧の山本玄峰<(注26)>(げんぽう)のもとで修業を積んだのち、1928年に大洗の護国堂に入って「日本精神に生きよ」との思想のもと、青年教育に努めていた。・・・
(注26)1866~1961年。「21代妙心寺派管長、圓福僧堂家を歴任する(年代順)。生涯を通して、四国八十八箇所遍路を最晩年まで続け17回に達した。昭和において多くの著名人が参禅に訪れた静岡県三島市の龍沢寺の住職として有名。・・・玄峰は東京へ行くと、全生庵でよく提唱や講義を行った。そして玄峰が遷化する数日前迄は全生庵に滞在していた。その影響もあり、ここ全生庵には戦前から多くの政治家が坐禅などに訪れる様になった。その後も、中曽根康弘や安倍晋三が坐禅に時折来ていた<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E7%8E%84%E5%B3%B0
⇒禅僧の指導を受けた、という一点だけからも、日召が日蓮宗僧侶ではなかったことは明らかでしょう。(太田)
日召の語るところによると、ある人の家に招かれていったところ、そこで交わされた革新談義が「馬鹿らしい空疎な」ものに思えて、「大いに罵倒してやった」。
すると「では、和尚には日本革新の具体案があるんですか?」と反問した青年がいた。
それが藤井斉であった。
「あるとも!」「ではそれを聴こう」「よし、一緒に護国堂へ来い」。
その夜、藤井は海兵同期(53期)の鈴木四郎<(注27)>(海軍中尉)とともに護国堂を訪ね、徹夜で日召と語った。
(注27)~1944年。1929年11月、藤井と共に霞ヶ浦航空隊飛行学生となる。ソロモンで死亡。
http://hush.gooside.com/name/Biography/2323susu.html
以来、藤井は週末になると、鈴木と2人で護国堂を訪れるようになった。・・・
「合法的に革新を行う方針」で、テロ行為よりも同志の獲得を重視していた日召も、藤井らの訴えを聞くうちに、次第に非合法手段を考えるようになる。
⇒藤井の方から日召に接近し、日召を過激派(鉄砲玉)に仕立て上げたことに間違いなさそうですね。(太田)
藤井は志が近いとみるや、右派や左派を問わず、あらゆる人物や団体を網羅すべく走り回り、かつ月旦をくわえていった。・・・
藤井は井上日召を連れて・・・安岡正篤・・・<が>創設、運営していた・・・金鶏学院<(コラム#13288)>を訪れ、そこで・・・ひたすらに修養を説く安岡にあきたらなく思っていた・・・四元義隆・池袋正釟郎<(コラム#13288)>ら東京帝大生の同志を獲得している。」(51~52)
⇒今度は、藤井は、帝大学生の四元と池袋を過激派(鉄砲玉)に仕立て上げたわけです。(太田)
(続く)