太田述正コラム#13372(2023.3.20)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その12)>(2023.6.15公開)
「・・・<1930>年2月の衆議院議員総選挙で、与党・立憲民政党は276議席(定数466)を獲得して勝利し、野党・立憲政友会は174議席で一敗地に塗れた。
敗れた政友会は軍縮問題での政変をもくろんで、海軍強硬派や、条約批准の関門と予想された枢密院との連携をめざす。
政友会幹事長の森恪は、・・・3月28日<、>・・・「責任ある海軍当事者」の意見を信任すべきだとの談話を公表した・・・。
森幹事長は、瓜生外吉<(注28)>(うりゅうそときち)海軍大将を岳父にもち、・・・海軍部内の情勢に通じた人物であった。
(注28)1857~1937年。「加賀藩支藩の大聖寺藩士・・・の次男<。>・・・明治5年(1872年)、海軍兵学寮に入る。1874年に設立された東京第一長老教会のメンバーになる。同8年(1875年)に<米国>に留学。1877年9月にアナポリス海軍兵学校に入学し、明治14年(1881年)、同校を卒業<。>・・・、常備艦隊司令官を経て、第4戦隊司令官として日露戦争を迎え、仁川沖海戦で勝利。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%93%9C%E7%94%9F%E5%A4%96%E5%90%89
⇒瓜生外吉の妻の繁子・・三井合名理事長だった益田孝(男爵)の実妹でやはりキリスト教徒・・の生涯はなかなか興味深いものがあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%93%9C%E7%94%9F%E7%B9%81%E5%AD%90
森恪は1920年まで三井物産勤務であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%81%AA
瓜生外吉の娘というよりは繁子の娘を妻にした、ということなのでしょう。(太田)
また森は、民政党政権の倒潰をめざす北一輝らとの連絡ルートも持っていた。
加藤軍令部長が上奏した同じ4月2日、森幹事長は、濱口内閣が「軍令部の意向を事実上まったく無視」したと公言した。
森は政府の回訓案が海軍に提示されたのが、閣議のわずか2時間前であったと述べて、「憲法上許すべからざる失態」だと批難した。
森の言動は、軍令部(特に末次次長)からの情報提供に基づいており、政府が軍令部の権限を犯したと主張することで、倒閣と政権交代が見込めると踏んだのである。
⇒牧野/杉山⇒軍事参議官の伏見宮博恭王⇒軍令部長の加藤寛治及び軍令部次長の末次信正⇒森恪、というルートで森が扇動された、ということでしょう。(太田)
さらに翌4月3日、軍や森恪に近い『大阪毎日新聞』が早くも「統帥権干犯」の語を取り上げ、翌4日には頭山満を代表とする「軍縮国民同志会」が回訓反対の決議を行って、政府の行為を「大権干犯」だと批難した。
同会には、北一輝の弟・昤吉<(注29)>(れいきち)や高弟の西田税が所属していた。」(60~61)
(注29)1885~1961年。早大文(哲学)卒。4年半近く欧米に留学<。>・・・
1929年(昭和4年)早稲田大学時代の教え子であった金原省吾らに請われて帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)の創立者兼初代校長となるが、 1935年(昭和10年)学校の運営と移転問題をめぐって学生と対立し、学生のストライキ事件(同盟休校事件)を期に学校は分裂する。(帝国美術学校と多摩帝国美術学校) 多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)を創設。・・・
1936年(昭和11年)、二・二六事件直前の第19回衆議院議員総選挙で無所属で当選し、政治家へと転身。当選後立憲民政党に入党。
戦後、自由党の結成に尽力した。公職追放解除後は日本民主党、自由民主党議員として活動<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%98%A4%E5%90%89
⇒一輝・昤吉の母親は日蓮宗信徒であったらしく(上掲)、また、「没後は母方叔父の本間一松が父替わりとなって一輝昤吉兄弟らの学費を援助した」(同)ということも勘案すれば、少なくとも一輝の法華経念誦は母親譲りっぽいですね。
ところで、「4月から5月にかけて末次宛に機密費が集中して支出されており、政治家や右翼団体への工作費ではなかったかとの推測がある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%AC%A1%E4%BF%A1%E6%AD%A3
ところ、森/立憲政友会には情報提供をするだけで足りたはずですし、大阪毎日新聞だって、この前年の1929年に完全に軍部支持へと舵を切り終わっていて(コラム#13183)買収資金を要したとは考えにくいので、この機密費は、鉄砲玉のリクルートと彼らに対する扇動のための活動費として藤井斉に流れた、と、見たいところです。(太田)
(続く)