太田述正コラム#13374(2023.3.21)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その13)>(2023.6.16公開)
「「統帥権干犯」の語を発案したのは北一輝と言われている。・・・
北とその周辺の陣営が、「統帥権干犯」の名分で軍縮条約を政治問題化し、野党やメディア、右翼団体などと連携して倒閣に動いたことは疑いない。
⇒既に申し上げたことから、北らが「動いた」のは、実質的には「右翼団体」に対してだけだったのではないでしょうか。
それも、藤井らから流れたカネを使ってです。(太田)
4月7日、西田税が藤井斉のもとを訪れた。
「軍令部長1日に上奏をなし得ざりしは、西園寺、牧野、一木[喜徳郎]の陰謀のため」と西田に聞いた藤井は、激高した。
「昨日西田氏訪問[中略]小生、海軍と国家改造に覚醒し、陸軍と提携を策しつつあり」(1930年4月8日付藤井斉書簡)
⇒藤井は、心にもないメーキングした文書をあえて残した、と、見ます。
話は逆で、藤井が西田を「呼びつけて」扇動したのでしょう。(太田)
藤井は、ロンドン海軍軍縮条約問題を「天皇を中心とする軍隊」に対する政党の挑戦と理解した。・・・
⇒政友会をけしかけ、同会と結託し、民政党をディスっているだけなのに、なんちゅう言いザマか、と、笑ってしまいます。(太田)
藤井は、ただちに行動した。
『憂国慨言』と題する冊子を作成し、「吾等の忠君愛国は、不義を討つことである。日本国家生命に叛くものに刃を向けることである」と切言した。・・・
海軍省に乗り込んで、山梨次官から「職権をもって追い出す」と言われるほどに条約締結の非を訴えた。・・・
⇒そんなことをして、何の御咎めも無かったところからも、軍令部のみならず、海軍省も、藤井がアンタッチャブルな存在とみなされていたことが窺えます。(太田)
5月19日、<軍縮会議から>帰国した財部を東京駅頭で待っていたのは、「降将財部の醜骸を迎う!」「売国全権財部を弔迎す!」「国賊財部を抹殺す!」などの過激なビラであった・・・。
これは愛国勤労党<(注30)>の手によるものであった・・・。」(61~62)
(注30)「1930年2月に成立した政治結社。
上杉慎吉門下の天野辰夫・中谷武世らの帝大七生社の一派と高畠素之門下の矢部周・神永文三・小栗慶太郎らの売文社の一派とが合同して成立した。後に新日本国民同盟にも参加した。
鹿子木員信博士を顧問とし、「綱領」には「一君万民、君民一家の本義に基づき、搾取なき国家の建設」を掲げた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%9B%BD%E5%8B%A4%E5%8A%B4%E5%85%9A
「大正5年ごろ上杉慎吉を中心として同士学生が愛国修養の団体「木曜会」を結成、それが発展し、大正8年に興国同志会となり、会員は400-500名を有した。同志会の機関誌『戦士日本』1号の鹿子木員信の巻頭辞が問題となって発売禁止となったため、経済的打撃などから同志会内で分裂が起こり、一部が脱会して国本社を作り、残留組は大正10年ごろに自然解体した。この間も木曜会会員として上杉のもとで修養していた40名ほどが大正13年<(1924年)>に上杉宅に集い、七生社を結成した。・・・
本部は当初は東京市小石川区大塚坂下町の上杉邸に置かれたが、後に指導者の阿刀田駿郎ら会員が住んでいた本郷区森川町の求道学舎(真宗大谷派僧侶近角常観が開いた学生寮)に移された。結社名は「七生報国」(七度生まれ変わっても敵を倒し、国に報ずるの意)。
「至誠一貫、報国尽忠」を掲げ、1927年6月には宣戦布告を行い新人会との衝突が激しい。・・・
だんだん暴徒化した。指導者には穂積五一、会員には四元義隆、浜崎長門、重富義男、工藤恒四郎、松岡平市などがいた。結社の学生宿舎として穂積が1932年に「至軒寮」・・・を開設した。
だんだん目立った活動はなくなり、1938年ごろ自然消滅状態となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%A4%A7%E4%B8%83%E7%94%9F%E7%A4%BE
高畠素之(たかはたもとゆき。1886~1928年)。「旧前橋藩士の子息。・・・1919年から1925年にかけて福田徳三らとともにカール・マルクスの『資本論』<の>日本初の全訳に成功し、当時のマルクス研究の主要研究者と目されながらも、右翼団体・国粋団体と提携して右傾化の傾向を深めた。1923年1月、上杉慎吉らと経倫学盟を設立した。・・・
売文社<は、>・・・1910年(明治43年)9月に・・・社会主義者で『共産党宣言』翻訳者の堺利彦が、大逆事件で壊滅した日本の社会主義者のため<に>・・・立ち上げ<たもので、>・・・畠は1911年(明治44年)9月、売文社に入社した<が、>・・・1916年(大正5年)には山川均が売文社に合流し、しばらくして売文社は堺利彦・山川均・高畠素之の合名会社となった。・・・
1918年(大正7年)・・・頃から、高畠にようやく後年の国家社会主義的傾向が芽生えはじめ、堺利彦とともに軍人・右翼の集会であった老壮会に出入するなどし、売文社の間に微妙な空気を醸し出すことになった。しかし山川らとの論争の後、山川と荒畑は偶然にも『青服』の筆禍事件で禁固4ヶ月に処される。これにより売文社内の勢力関係は一変し、高畠派の圧倒的優位の状況に変化した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%95%A0%E7%B4%A0%E4%B9%8B
(続く)