太田述正コラム#13378(2023.3.23)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その15)>(2023.6.18公開)
「・・・折しもこの頃、濱口雄幸内閣のもうひとつの看板政策、井上準之助蔵相による金解禁と緊縮政策が、日本に未曾有の大不況をもたらしつつあった。
金解禁は為替レートを安定化させ、輸出増進・景気回復の効果があるとされていた。
ところがすでに1929年10月、ウォール街の株価暴落、いわゆる世界大恐慌によって、輸出先であるアメリカ経済の混乱が始まっていた。
だが濱口内閣は11月、金解禁の実施を翌1930年1月と予告し、しかも為替レートが高くなる旧平価で断行した。
前者は年明けに想定される解散総選挙を前に政策実行力を見せつけ、有利に選挙を戦うためであり、後者は現状に近い新平価のレートには法改正が必要という、議会対策上の理由が主であった。
⇒「議会対策上の理由が主」は初耳ですが、小山は典拠を示していません。
他方、金解禁のウィキペディア執筆陣は、「濱口内閣の路線は金融界からは支持された上、元老西園寺公望も、政友会が田中義一内閣時代に行った対中国強硬路線が招いた国際関係の悪化に不快感を抱いており、当分は立憲民政党内閣を継続させて、対外信用の回復に努めるのが望ましいと判断し、これを黙認したのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%A7%A3%E7%A6%81
としているところ、これにも典拠は示されていませんが、私は、このストーリーの方が腑に落ちるのであって、「旧平価での金解禁に強く反対し<てい>た・・・高橋亀吉・・・石橋湛山・・・小汀利得・山崎靖純・・・ら経済評論家や・・・大蔵省の津島<寿一>財務官・・・<、そして、米国>経済の動向を危惧する三菱財閥の各務鎌吉ら」(上掲)の主張が正しいと判断した杉山元らが、あえて、西園寺を通じて、経済に大混乱が起きるであろうことを期待して、濱口内閣に旧平価での金解禁をやらせた可能性に思い至っています。
石橋湛山は日蓮宗信徒であり、後に父が日蓮宗の法主まで務めることになる重鎮であって、それだけでも、杉山らの関心を引いたであろう上に、彼は、一年志願兵として陸軍軍曹まで、また、見習士官として少尉まで、陸軍に務めた経験があり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E6%B9%9B%E5%B1%B1
陸軍内の杉山グループとの接点があっても不思議ではなく、杉山らが、石橋から、直接、話を聞く機会だって大いにありえたからです。(太田)
そのために金解禁のショックは、「大暴風に向って雨戸を開け放った」と譬えられるほど激甚なものとなった。
よくなると考えられてきた景気が、目に見えて深刻化したのは1930年春頃からである。
まず金解禁にともない、莫大な金が国外へ流出した。
1930年からの2年間で、約13億6000万円あった正貨(金)は、わずか約4億円を残すまでに消失した。
さらに極端な財政支出の抑制により、強烈なデフレが発生し、物価と株価が暴落した。
物価は同じく1930年からの2年間で、卸売り・小売り物価指数が約30%も低下した。
なかでも対米輸出の主要品である、農村産出の生糸は、最大で約55%下落し、綿花は約52%、米も約50%の値下がりを記録した。
株価も1930年3月から、目に見えて急落し、金解禁前(1926年6月)と解禁後(1931年11月)との平均株価下落率は50%を超えて、有力株も軒並み暴落した。
こうして日本の輸出総額は、1929年から31年にかけて約26億円から約15億円へ、率にして約43%減少し、正貨(金)の流出とあわせて巨額の赤字を記録した。
日本市場最大の不況、昭和恐慌が到来したのである。・・・
折悪しく、1929年は大凶作、30年は大豊作となり、31年は再び大凶作となった。
豊作でも凶作でも、米価は暴落し、地主は小作料に相当する分の米納を要求した。
農民は小作料を米で納めたうえで、値段の安い米を泣く泣く叩き売った。
貴重な現金収入源であった生糸も、アメリカ経済の凋落で買い手がつかなかった。」(67~68)
⇒日本国内でこんな経済的苦境が絶妙な時期に出来してしまった結果、立憲民政党のみならず、政党政治そのものに、世論が見切りをつけたのは当然であり、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス完遂戦争へと、日本を、総動員体制をとらせた上で引っ張っていくための機運が急速に醸成されることになったわけですが、外地で諜報活動に勤しんでいた陸軍の、しかも、1912年に米領フィリピンで自らも諜報活動経験のある、杉山元、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
なら、藤井斉を扇動しカネを与え、石橋湛山の持つ情報をパクったりして、日本国内で大掛かりにして過激なる諜報活動を行うことを躊躇しなかった、と、考えない方がおかしいのではないでしょうか。
(続く)