太田述正コラム#13380(2023.3.24)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その16)>(2023.6.19公開)

 なお、日本の経済的苦境の原因の一つが米国発の世界恐慌であったことに加え、1930年に米国が同恐慌対策として制定したスムート=ホーリー法が英仏等、つまりは、それら諸国の植民地群を含めれば、世界に保護貿易主義をもたらしたこと
https://www.y-history.net/appendix/wh1504-007_2.html
が、1924年に制定されたいわゆる排日移民法
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E6%97%A5%E7%A7%BB%E6%B0%91%E6%B3%95
によって悪化していた日本人の対米感情を一層高めたことも忘れてはならないでしょう。
 杉山らが快哉を叫んでいたであろう光景が目に浮かびます。(太田)
 
 「・・・1930年(昭和5)11月14日<に>・・・銃弾を・・・浜口雄幸首相・・・に浴びせたのは、国家主義団体である愛国社<(注33)>(岩田愛之助<(注34)>社長)の佐郷屋留雄<(コラム#12776)>(さごうやとめお)<は、>まだ23歳の青年であった。・・・

 (注33)「昭和3年(1928年)岩田愛之助により創設される。背後には内田良平がいた。機関紙は「愛国新聞」(1932年創刊)。<支那>及び満州に関する問題に積極的関与、各大学で反共産主義右翼学生の組織化を企図した。田中義一内閣打倒や農村での青年に対する実践教育などを行っていたが、一躍、愛国社の名を広めたのは、・・・愛国社社員の佐郷屋留雄が東京駅において浜口雄幸首相を狙撃し重傷を負わせた(このときの傷がもとで、浜口は死去)ことによる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%9B%BD%E7%A4%BE_(1928%E5%B9%B4-)
 (注34)1890~1950年。「陸軍幼年学校を中退後、神戸の乾行義塾で<漢>語を学ぶ。1910年<支那>に渡り、大陸浪人として武漢革命に参加するが、後に川島浪速・佐々木安五郎と知り合い、清朝復辟運動に転じた。1913年に帰国し、頭山満・内田良平・田中弘之(舎身)らに接近し、対支外交問題を論じる。同年9月に起こった外務省政務局長・阿部守太郎暗殺事件で殺人教唆の罪に問われ、無期懲役の判決を受ける。1925年恩赦を受け釈放、再び<支那>に渡り1927年に帰国した。
 1928年松木良勝らとともに、反共・積極的大陸政策を唱えた右翼団体・愛国社を結成する。・・・
 墓所は築地本願寺和田堀廟所。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E7%94%B0%E6%84%9B%E4%B9%8B%E5%8A%A9
 「阿部守太郎暗殺事件・・・は、1913年(大正2年)9月5日、東京府東京市赤坂区霊南坂町(現・東京都港区六本木一丁目)で、外務省政務局長の阿部守太郎が襲撃され、翌6日に死亡した暗殺事件。同年に・・・南京で発生した邦人虐殺事件(南京事件)に対する外務省の対応に不満を持つ青年、岡田滿(18歳)と宮本千代吉(21歳)による犯行であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%AE%88%E5%A4%AA%E9%83%8E%E6%9A%97%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

⇒広田弘毅が、「1926年(大正15年)11月、オランダ公使を拝命(任地ハーグ着任は1927年〈昭和2年〉6月)。1930年(昭和5年)10月、駐ソビエト連邦特命全権大使を拝命(任地モスクワ着任は12月)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85
ということから、10月に帰朝していた可能性があり、その場合、既に面識があったと想像される杉山元から広田に、広田がかねてより親しくしていたところの内田良平(上掲)を通して岩田愛之助に杉山の密使に会うように取り計らってもらったのではないか、そして、その密使が、岩田をけしかけたのではないか、と、私は想像しているのですが、どんなものでしょうか。(太田)

 藤井斉・・・<は、この>事件の翌12月に、九州長崎県の大村航空隊教官として異動が命じられている。・・・
 霞ヶ浦を離れるにあたり、藤井は井上日召に、革命のための情勢を探り、人物を見極めて同志を獲得し、団結をうながすことを托した。
 日召はこの頃、大洗の護国堂を追われて、東京本郷の妻の住む家へ移っていた。
 そこで日召は、東京での活動に必要な金を藤井に要望し、藤井も了承した。」(71~74)

⇒どうして、一介の海軍中尉にそんなカネがあるのよ、ということです。
 私の軍令部のカネが出所仮説が必要なゆえんです。(太田)

(続く)