太田述正コラム#13386(2023.3.27)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その17)>(2023.6.22公開)

 「それから間もなく、1930年の12月に、四元義隆が郷里の鹿児島へ帰るのにあわせて、日召は四元と九州に向かった。
 大村に赴任した藤井に呼ばれたのである。
 九州の地で、藤井は陸軍の菅波三郎中尉(鹿児島歩兵45連隊)と出会った。
 菅波は士官学校在学中に西田税と知り合い、北の『日本改造法案大綱』を読んで、国家改造運動に志した陸軍青年将校のリーダー格である(のち二・二六事件で禁固5年)。
 藤井と菅波は、同志として強い結束を誓い合った。
 また藤井は、この地で三上卓<(コラム#12788)>(海軍少尉・海兵54期)との関係を深めた。
 かつて藤井が海軍兵学校時代、学年を代表して鈴木貫太郎軍令部長の前で演説を行ったことがあったが、同じとき、三上は一学年下の代表として演説をした。
 佐賀に生れ、寡黙で芸術家肌の三上は、藤井と同じく軍縮問題を憂いて、ひとりで財部彪海相・若槻礼次郎元首相ら会議全権を暗殺しようと計画を練っていた。
 そこへ「たまたま藤井があらわれ」て、2人は意気投合したのである。・・・

⇒杉山らが、西田を、菅波や三上と会い易い場所へと藤井を異動してやった、と見るわけです。(太田)

熊本で・・・日召は旧知の荒木貞夫<(注35)>陸軍中将(第6師団長)に会って「革新の相談」への「同意」を得たという。

 (注35)「1929年(昭和4年)、陸軍首脳は「青年将校を煽動する恐れあり」という理由で、第1師団長であった真崎甚三郎を台湾軍司令官として追いやったが、そのときに荒木も左遷される予定であった。しかし、教育総監の武藤信義が「せめて荒木は助けてやってくれ」と詫びを入れる形で、荒木は第6師団長から教育総監部本部長に栄転し東京に残った。武藤はどちらかというと「反宇垣一成」で皇道派の庇護者であったため、統制派の独裁を嫌い、特に荒木を可愛がったらしい。この頃の荒木の人気というのは大変なもので、東京駅のホームは出迎えの青年将校で溢れ、さながら凱旋将軍のようであったという。
 1924年(大正13年)、平沼騏一郎が司法官僚や陸海軍の高級軍人を集め組織化した国粋主義団体・国本社で、荒木貞夫は宇垣一成と共に理事をしており、平沼に心酔していた。1931年(昭和6年)7月16日の原田熊雄の『原田日記』によれば、その頃荒木は平沼を天皇の側近にするための宮中入り運動をしていたが、西園寺公望によって阻止されている。憲兵司令官時代から大川周明や平沼騏一郎・北一輝・井上日召といった右翼方面の人物と交流を持っていたことから、1931年(昭和6年)の十月事件においては、橋本欣五郎から首相候補として担がれたが、荒木自身の反対や意見の非統一から計画は頓挫した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E8%B2%9E%E5%A4%AB

 日召は大村で藤井、佐世保で三上らと再会し、さらに藤井の依頼で赴いた横須賀では、浜勇治海軍中尉(53期)・山岸宏<(注36)>海軍中尉(56期)・伊東亀城<(注37)>海軍少尉(57期)らと面会した。・・・

 (注36)「五・一五事件<の時、>・・・犬養は〈話せばわかる〉と制したが,山岸宏中尉が〈問答無用,撃て〉と叫び,黒岩勇予備役少尉と三上がピストルで犬養を撃ち,犬養は午後11時26分絶命した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E5%B2%B8%E5%AE%8F-1429872
 (注37)井上準之助を殺害した小沼正は「拳銃は伊東亀城(いとうかめき)から盗んだ」とウソの(?)自供をしている。
https://rekishichips.web.fc2.com/kyoudan4.htm

 1931年2月、東京へ戻った井上日召らは、西田税から陸軍内部でのクーデター計画を聞かされた。
 建川美次<(コラム#10091)>(たてかわよしつぐ)陸軍少将(参謀本部第二部長)・小磯国昭陸軍少将(陸軍省軍務局長)らを中心に、橋本欣五郎陸軍中佐ら桜会の急進派、そして大川周明らが協力し、宇垣一成陸相(大将)を担ぐ計画であった。

⇒三月事件関係者中に、私が首謀者と見ているところの、杉山元(当時陸軍次官)(コラム#省略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98%E7%AD%89%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
、を登場させるのが稀であるという、嘆かわしい「慣例」に小山も従っていますね。
 いずれにせよ、私としては、この時点までに、杉山が、杉山構想の一部を、宇垣、建川と小磯に開示した、と見ている次第です。(太田)

 将官級・佐官級の陸軍将校と大川の陣容が中心となったこの計画が、いわゆる三月事件である。」(74、76~77)

(続く)