太田述正コラム#13390(2023.3.29)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その18)>(2023.6.24公開)

 「・・・<1931年>3月に入り、大川周明の意を受けて「全日本愛国者共同闘争協議会」(日協)<(注77)>が結成された。

 (注77)狩野敏(かのびん。1901~1981年)は、「1924年(大正13年)拓殖大学支那語科卒業。・・・日本新聞入社。・・・1930年(昭和5年)、大川周明の思想に共感し、行地社本部で専任事務、機関誌月刊「日本」の編集発行にあたり、その腹心的役割を果たす。。1931年(昭和6年)、民間右翼の大同団結の動きに加わり、八幡博堂、鈴木善一、津久井竜雄らと共に、全日本愛国者共同闘争協議会(日協)を結成。同年3月、日協前衛隊長。1932年(昭和7年)、大川周明が神武会を新たに結成、会頭となるのに伴い、全日本愛国者共同闘争協議会を解消。同年2月、神武会常任中執委員・総務部長。同年9月、同委員長(1935年(昭和10年)2月解散)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E6%95%8F
 「全日本愛国者共同闘争協議会の結成に<は>狩野が積極的な役割を果たした<。>」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%84%9B%E5%9B%BD%E8%80%85%E5%85%B1%E5%90%8C%E9%97%98%E4%BA%89%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A-1354233
 「拓殖大学は、1900年(明治33年)6月に設立された台湾協会学校を起源とし、1904年に専門学校令準拠の台湾協会専門学校、1907年に東洋協会専門学校、1915年(大正4年)に東洋協会植民専門学校、1918年に拓殖大学と改称。1922年に大学令準拠の東洋協会大学となり、1926年に拓殖大学と改称。戦前期を通じて植民地経営に資する人材を多く輩出した。・・・
 初代校長<は>桂太郎>・・・第三代学長<は>後藤新平<。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%93%E6%AE%96%E5%A4%A7%E5%AD%A6

⇒狩野が出た拓殖大学は、アジア主義をその名称からも明らかなように掲げた大学であったわけです。(太田)

クーデターの前提となる騒擾事件を起こすため、大川が右翼団体に動員をかけたのである。・・・

⇒この資金の出どころは、当時の杉山元陸軍次官牛耳る陸軍省でしょうね。(太田)

 だが・・・宇垣<陸相>が「変節」して、クーデターの中止を命じたとされ、計画は頓挫した。・・・
 日協は雲散霧消し、小沼ら茨城の青年も大川と距離をとった。・・・
 8月20日、・・・大村から上京した・・・藤井は・・・長勇<(注78)>(ちょういさむ)(陸軍大尉)と会<ったが、>・・・橋本欣五郎(陸軍中佐)への尊敬を隠さない長から、陸軍と大川<(注79)>が結んで「満蒙に火を付けること」で「国内の改造を為さん」との計画の一端を聞いた。」(77~78、80)

 (注78)1895~1945年。幼年学校、陸士(28期)、陸大(40期)。「福岡県糟屋郡粕屋町出身。農業・長蒼生の長男として生まれる。・・・
 1930年(昭和5年)に橋本欣五郎らと桜会を結成。同年12月、参謀本部部員。1931年(昭和6年)の三月事件・十月事件を計画。橋本らと同様に処分を受けるが軽い処分で済んでいる。十月事件での長の役割は、首相官邸を襲撃し全閣僚を殺害するというもので、長は新内閣樹立の際は警視総監に就任する予定であったが保護検束されている。
 1931年(昭和6年)8月、陸軍歩兵少佐に進級。1933年(昭和8年)8月、台湾歩兵第1連隊大隊長。第16師団留守参謀を経て、1935年(昭和10年)12月、陸軍歩兵中佐に昇進し参謀本部部員(支那課)となる。兼陸大教官、参謀本部附(漢口武官)を歴任する。
 1937年(昭和12年)8月、第二次上海事変が勃発すると、上海派遣軍参謀として出征。中支那方面軍が編成されると同方面軍参謀を兼務する。同年12月、朝香宮鳩彦王指揮下の情報主任参謀として、南京攻略戦に参加。捕らえた捕虜を「ヤッチマエ」と処刑するように命じ、それを知った中支派遣軍司令官の松井石根大将にたしなめられたという逸話がある。
 1938年(昭和13年)3月、朝鮮軍隷下の歩兵第74連隊長となり、同年7月、陸軍歩兵大佐に進級。張鼓峰事件に参戦。1939年(昭和14年)3月、第26師団参謀長。台湾軍司令部付、印度支那派遣軍参謀長、第25軍参謀副長、陸軍省軍務局付などを経て、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級。同年11月、南方軍司令部附(仏印機関長)となり太平洋戦争に出征。
 1942年(昭和17年)7月、兼軍務局附となり、第10歩兵団長、参謀本部附を歴任。1944年(昭和19年)3月、関東軍総司令部附。同3月1日より機動第一旅団長。同年6月に参謀本部附となり、同年7月、沖縄防衛を担当する第32軍の参謀長となる。1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進級。沖縄戦を戦うが<米>軍に追い詰められ、1945年6月23日(22日とする説もある)摩文仁丘の洞窟内の第32軍司令部で、第32軍司令官の牛島満大将とともに割腹自決。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%8B%87
 (注79)「満洲事変に際しては首謀者の一人板垣征四郎と親しく、笠木良明が結成した大雄峯会が柳条湖事件や自治指導部などで関わった満洲国の建国を支持して在満邦人と満洲人民を政治的横暴から救うという視点から「新国家が成立し、その国家と日本との間に、国防同盟ならびに経済同盟が結ばれることによって、国家は満洲を救うとともに日本を救い、かつ支那をも救うことによって、東洋平和の実現に甚大なる貢献をなすであろう」と主張した(文藝春秋昭和7年3月号『満洲新国家の建設』)。・・・
 三月事件・十月事件・血盟団事件など殆どの昭和維新(クーデター)に関与し、五・一五事件でも禁錮5年の有罪判決を受け<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%91%A8%E6%98%8E

⇒南京攻略戦の時点では、松井石根の中支那方面軍の隷下に朝香宮鳩彦の上海派遣軍と柳川平助の第10軍があったところ、いわゆる南京事件中、どちらも松井司令官の意に背いて、朝香宮は長勇の補佐の下捕虜殺害を行い、柳川平助は南京市民殺傷・強姦を積極的に黙認した、ということになるわけです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E6%88%A6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%94%AF%E9%82%A3%E6%96%B9%E9%9D%A2%E8%BB%8D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E6%B4%BE%E9%81%A3%E8%BB%8D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC10%E8%BB%8D_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%8B%87#cite_ref-7
 私は、柳川と長に対し、直接、杉山らからそうするように指示がなされていた、と見ています。
 (柳川の方の話については既述しているところです(コラム#省略)。)
 なお、長は、1931年以前から杉山らにリクルートされて、使い走りに使われ続け、口が軽いと判断されたことから、口封じのために自決が避けられない沖縄に送り込まれた、と見たらどうでしょうか。
 そうであるとすれば当然、長には、この時点で、藤井に満州事変を起すとの予定を伝えるように、杉山らから指示があったはずだ、ということになるわけです。(太田)

(続く)