太田述正コラム#13398(2023.4.2)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その22)>(2023.6.28公開)

 「後継首相には、連立を希望する牧野伸顕内大臣の意見を退けた元老西園寺公望の推挙で、犬養毅正風会総裁が就任した。

⇒一心同体に等しいこの二人が相談の上、そういう話をでっち上げた、ということでしょうね。(太田)

 12月1日、藤井は大尉に昇進し、空母「加賀」乗船となった。
 さらなる同士を獲得すべく、藤井は「加賀」の同期飛行士官による、中国出征を訴えた血判に参加した。・・・
 藤井はあくまでも、陸海共同の大規模な軍事クーデターを構想し続けていた。・・・
 仮に藤井が海軍側決起の指揮をとっていたら、五・一五事件の様相はまったく変わっていたとされる根拠は、この辺りにある。
 だが2月に入り、藤井の所属する空母「加賀」が大陸へ出征する。
 第一次上海事変である。・・・
 <1932年>2月5日、・・・藤井は戦死した。
 享年29。
 藤井斉は、日本海軍の航空戦における最初の戦死者であった。・・・

⇒杉山らが藤井を空母勤務にしたのは、彼を温存するためだったのでしょうが、それなのに戦死してしまったことは、杉山元らにとっては、予定外の痛手となったと思われます。(太田)

 <こ>の戦死に先立つ1月31日、井上日召とその一派の6名が権藤<成卿>空家に集まった。
 日召は紀元節の一斉決起を諦め、方針を変更した。・・・
 日召は・・・<犬養内閣による解散総選挙による>2月20日の投票日までの間を想定して、集団テロを個人テロに変更することを決めた<のだ>。・・・
 井上準之助の暗殺指令を受けた小沼正<(注86)>・・・の懐には、藤井が大陸で入手したピストルがあった。・・・

 (注86)おぬましょう(1911~1978年)。「茨城県那珂郡平磯町磯崎出身。漁業梅吉の三男<。小卒。>・・・1930年(昭和5年)に井上日召を知り、血盟団に加わった。立正護国堂に入り、日蓮信仰と国家革新の思想を学んだ<。>・・・1934年(昭和9年)11月22日に無期懲役となったが、1940年(昭和15年)に恩赦で仮出所。戦後、公職追放となり、1949年(昭和24年)業界公論社社長を務める。1953年(昭和28年)、右翼運動を再開。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B2%BC%E6%AD%A3

 小沼は・・・南無妙法蓮華経を唱えて、井上準之助の背後からピストルを3発、続けざまに撃った。

⇒小沼は、井上日召によって日蓮主義者に仕立て上げられ、題目を唱えながら暗殺を決行したわけです。(太田)

 井上前蔵相はただちに病院に運ばれたが、まもなく絶命した。・・・
 2月20日の投票日、「景気か不景気か」のスローガンを掲げた与党政友会が303議席の圧勝(定数466)を挙げ、民政党は146議席の惨敗に終わった。
 続いて3月5日昼、・・・菱沼五郎<(注87)>が団琢磨を射殺した。

 (注87)1912~1990年。「茨城県那珂郡前渡村にて農業徳松の三男として生まれ、水戸勤王の遺風を学んで成長した。・・・岩倉鉄道学校<卒。>・・・大洗町の護国堂にいた井上日召のもとに通う。
 1930年(昭和5年)、ロンドン軍縮条約をめぐって統帥権干犯問題が起きると、日本国民党(委員長・寺田稲次郎、書記次長・鈴木善一)がその抗議行動のために結成しようとした決死隊に参加。同郷で同じく井上の門下である小沼正、川崎長光、黒沢大二らとともに一心同体で行動しようと血盟しあう。日本国民党のほか、大川周明の行地社とも接触し、浅草本郷のタクシー助手をしながら決行の日を待つ。
 1932年(昭和7年)3月5日、三井合名(三井財閥本社)理事長の團琢磨を日本橋区駿河町の本社前でピストルで射殺した<。>・・・
 戦後は公職追放となり、右翼運動から離れて、大洗町で漁業会社を経営し、1959年地元漁業界などに推されて自由民主党から茨城県議に当選、以来連続8期を務めた。1973-1975年第67代県議会議長。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%B1%E6%B2%BC%E4%BA%94%E9%83%8E

 伊藤巳代治の担当であった菱沼は、2月17日に鈴木喜三郎法相(政友会幹部)への標的変更を告げられた。
 投票日まであと数日となり、街頭に出る政党政治家が優先されたのである。
 <ところが、>・・・鈴木は欠席<であったため、>・・・森恪<に切り換えるも>・・・森の護衛に睨まれて断念した<ところ、>・・・今度は四元から団琢磨を狙うよう命じられた<もの。>」(87~88、90~91、93~94)

⇒小沼も菱沼も、「水戸勤王の遺風」のあった茨城県出身者なので、そもそも秀吉流日蓮主義者になる素地があり、しかるがゆえに、井上日召によって秀吉流日蓮主義テロリストに仕立て上げられた、ということになります。
 なお、彼らが暗殺対象者に擬した人々は、当時、非政党人で「憲政会・立憲民政党内閣の進めた協調外交(幣原外交)に批判的で、昭和2年(1927年)には枢密院で台湾銀行救済緊急勅令案を否決させ第1次若槻内閣を総辞職に追い込み、昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮条約締結時にも反対して濱口内閣を苦しめた」枢密顧問官の伊藤巳代治、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E5%B7%B3%E4%BB%A3%E6%B2%BB
その民政党の井上準之助、民政党と戦っていた政友会の鈴木喜三郎や森恪、そして財界人(三井財閥総帥にして、「昭和金融恐慌の際、三井がドルを買い占めたことを批判され、財閥に対する非難の矢面に立<たされていた>)の団琢磨、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%98%E7%90%A2%E7%A3%A8
という具合であり、要は、政財界の大物なら誰でもよかった感があります。(太田)

(続く)