太田述正コラム#13402(2023.4.4)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その24)>(2023.6.30公開)

 「黒岩は古賀に対し、三上を出迎えたため横須賀の山岸宏・村山格之への連絡はできなかったこと、池松武志にも<陸軍>士官候補生との連絡をしばらく待たせていること、などを告げた。
 古賀は非常に不満な表情をみせた。
 なぜ連絡をとらないのか。決起に間に合わなければどうするのか。
 すぐに横須賀の同志と連絡するように古賀は求めた。・・・
 黒岩は横須賀組との連絡のため、中村も奥田に手榴弾を渡すために外出した。

⇒最後に大川周明に会ったのが黒岩であり、彼は、大川から、五・一五事件は陸軍抜きでやれ、現役陸軍軍人(陸軍士官候補生)を巻き込むな、と命じられ、同時に、この話は同志の誰にも明かすな、とも言われていた、と、私は見ています。(太田)
 
 5月14日、正午頃<、>大陸に旅行していた陸軍士官候補生8名・・・が市ヶ谷の士官学校に帰校した。
 また福島へ測図演習に行っていた坂元兼一も、同日午後4時に帰校した。
 海軍との連絡のため、旅行を休んだ後藤映範・金清豊の2名は、決起計画を全員に伝えた。
 士官候補生11人は、来るはずの池松武志からの連絡を待った。
 だが黒岩勇に連絡を止められた池松は、この日ついに現れなかった。・・・
 5月15日、・・・午前8時頃<、>朝山小二郎<(注90)>(陸軍砲兵中尉)が池松を訪ねてきた。

 (注90)1903~?年。陸士37期。大分県出身。
https://shirakaba.link/betula/%E6%9C%9D%E5%B1%B1%E5%B0%8F%E4%BA%8C%E9%83%8E
https://blog.goo.ne.jp/ryurakushi/e/c1743f5fb8681feb43af5c8b24e369f2 ←写真

 海軍と結ぶ士官候補生の決起を止めるためである。・・・
 午後1時半、池松は坂元と2人で、菅波・・・三郎陸軍中尉・・・を訪ねた。
 菅波は「直接行動をなすべき時期ではない」と訴えたが、池松らは「私達は決行する」と答えた。
 だが今日のうちに決起することは告げなかった。
 午後3時頃、池松らは「また次回に面会しましょう」と言って別れ、集合場所の泉岳寺に向った。・・・
 
⇒菅波は、大川周明同様、杉山元らから、現役陸軍軍人を関与させるなとの指示を受けており、当日の五・一五事件決行も知っていて、念には念を入れ、朝山を使って、池松が陸軍士官候補生達と連絡をとらないように、池松を一時的に「拉致」した、といったところでしょう。(太田)

 海軍青年将校は、当初はリーダー藤井斉を中心に、大正期以来続く陸軍内の国家改造運動と連絡をとり、軍に圧迫を加える政党政治と、それを支える顕官・財閥など「特権階級」のクーデターによる打倒をめざした。
 ロンドン海軍軍縮条約の締結は、一連の動向を強く促した。
 だが十月事件の失敗、犬養内閣の成立(荒木陸相の就任)、上海事変の勃発とリーダー藤井斉の戦死などで、古賀は陸軍将校らと決別し、血盟団と同調した、当初の構想を縮小させた集団テロに転じた。
 陸軍士官候補生と愛郷塾が、古賀の決起に応じた背景には、昭和恐慌と農村の惨状などがあった。
 ただし海軍側が意図する主眼は、国家改造のための「大義名分」を整えることにあった。
 しかも「陸・海・民」三者という形態は守られたものの、事件はかつて藤井斉が構想した壮大な「革命」とは、大きく異なる内実となった。」(114、116~117、120)

⇒ここも、小山によって、典型的な、私の言う、ブツ切り出たとこ勝負史観、が披露されていますが、昭和恐慌からして、杉山元らの作為を嗅ぎ取っている私の秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス史観は、私をして、杉山らは、かねてより上記コンセンサス過激派を陸・海・民の若手で育成してあったところ、1931年の三月事件こそ失敗に終わったけれども、その後、満州事変を予定通り引き起こし、その上で、最初から未遂に終わらす予定だった10月事件を経て、翌1932年に入ると、第一次上海事件での藤井斉の予定外の死もこれあり、「民」の個人テロ(血盟団事件)でもって財界等を委縮させ、次いで、「海・民」の集団テロ(五・一五事件)でもって海軍等を委縮させた上で、温存した「陸」でクーデター未遂事件を引き起こすことでもって、杉山元らが陸軍を完全に掌握するとともに、日本において挙国一致/総動員体制を完成させることを計画し、ことごとくそれらに成功した、という見方をさせている次第です。(太田)

(続く)