太田述正コラム#13404(2023.4.5)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その25)>(2023.7.1公開)
「・・・犬養毅首相は死んだ。・・・
犬養内閣は、戦前の政党内閣としては最後の政権となった。
それにしても、なぜ・・・政党政治は五・一五事件で終わりを迎えたのだろうか。・・・
事件当夜の森の言動から、森の暗殺関与説<が>早く<から>政界に流布された。
誰が流したか、という検証は困難だが、その一人は、疑いなく<犬養の女婿の外相の>芳沢謙吉<(注90)>・・である。・・・
(注90)1874~1965年。二高、東大文(英文)卒、外務省入省、政務局第一課長、亜細亜局長、欧米局長、駐中公使、「1925年1月20日 – ロシア代表カラハンとの間に日ソ基本条約を締結、日ソ間の国交を樹立する(芳沢‐カラハン会議)」、駐仏大使、犬養内閣外相、蘭印経済交渉全権、駐仏印、初代大使、戦後、駐中華民国大使。
「妻の操は内閣総理大臣等を務めた犬養毅の長女であり、犬養内閣では外務大臣に起用された。外務事務次官や駐<米>大使を務めた井口貞夫は娘婿。孫に国際協力機構理事長や国際連合難民高等弁務官事務所弁務官等を歴任した国際政治学者の緒方貞子、国際法学者で元ニュージーランド大使の井口武夫、元外務省事務次官や侍従長を務めた川島裕、慶応義塾大学教授で日本の女性国連職員の草分けである佐々波楊子(旧姓川島)、数学者の芳沢光雄等がいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B3%E6%BE%A4%E8%AC%99%E5%90%89
芳沢は・・・海外の<日本の外務省>駐在官にまで、・・・洩れなく「森黒幕説」を流布していた・・・。
また後年、芳沢は事件の襲撃対象者でもある牧野伸顕にも、直接「森黒幕説」を語っている。
これを聴いた牧野は「芳沢君の推測は誤らざるべし」と、その説明に納得した。・・・
さらに後年になって、政界に流布された「森黒幕説」に着目し、大胆に・・・1966年に発表した『昭和史発掘』のなかで・・・推理したのが松本清張である。・・・
⇒小山のこの松本説(森黒幕説)に対する批判は省略しますが、小山は、あくまでも自分の抱懐するブツ切り出たとこ勝負史観に忠実に、特定の個人や組織を黒幕として提示しようとはしていません。
それに対し、何度も恐縮ですが、私は、杉山元らが黒幕である、と、見ているわけです。
そして、私見ではその一味であるところの牧野は、芳沢の珍説に笑いを噛み殺しながら「その説明に納得した」ふりをし、その旨をわざわざ日記に書き残した、と。(太田)
森は、陸軍が政党政治の継続に難色を示していることを、嗅ぎつけていた。
陸軍の動向の一端は『木戸幸一日記』にも記されている。
5月16日夜、木戸幸一(内大臣秘書官長)は近衛文麿(貴族院副議長)を介して、「再び政党内閣の樹立をを見る」ことになっては「荒木〔貞夫〕陸相といえども部内を統制するのは困難」になる、という小畑敏四郎少将の意見を耳にした。
17日に会った鈴木貞一中佐や永田鉄山少将も、「現在の政党による政治は絶対に排斥する」との意見に変わりはなかった。・・・
⇒この時点では、まだ、木戸が内大臣になることが決まっていたわけではないので、杉山構想は木戸に開示はされていなかったはずであり、従って、木戸が自分の日記に作為を加えていたとは考えられず、事実が書かれていたはずであることから、陸軍上層部が、(杉山自身は、第12師団長として東京を離れていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
けれど、実質的には彼の統制の下、)何が何でも、挙国一致内閣の樹立を期していたことが良く分かります。
結局、この陸軍上層部の意向が貫徹するのですから、杉山構想的なものまで思い至るかどうかはともかくとして、少なくとも五・一五事件に関しては、その黒幕が陸軍上層部であった可能性を、どうして私以外の誰も指摘しないのか、不思議でなりません。(太田)
5月20日、陸軍上層部は新内閣組織に対して新たな5条件を出し、部内の鎮撫に努めた。
「既成政党の弊を矯正」し、「一政党単独内閣を排し」て「挙国一致の実をあげる内閣」でなければ、組閣を認めない。・・・
また潔白で能力ある国務大臣、統制経済や満州政策を推進する蔵相・外相などの起用も条件に含まれた。」(124、127~18、142~143)
⇒ここに至って、ついに、陸軍上層部は、公然と挙国一致内閣の樹立を求めるに至ったわけです。(太田)
(続く)
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