太田述正コラム#2257(2007.12.25)
<1991年の政務次官随行中東訪問記(その1)>(2008.7.10公開)
<太田>
1991年8月、当時の江口一雄政務次官中東方面出張に防衛庁人事局人事第2課長をしていた私が随行しました。
この時の出張報告をご披露しましょう。
なお、添付資料は省略しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
平成3年8月7日(水):江口一雄防衛政務次官及び太田人事第2課長の中東諸国訪問に係る辞令交付、記者発表。(資料1「辞令」及び資料2「発表文」参照)
8月8日(木):1800から、政務次官室において、事前勉強会。(資料3「江口政務次官訪欧・中東御参考資料」及び資料4「同別冊」参照。なお、これら資料は、太田が国際室作成版を増補したもの)。現地からの問い合わせに答え、
ロンドンでは買物をしないこと、帰途にドイツのフランクフルトに立ち寄った際には、ライン河ではなく、ハイデルベルクにおもむくことと決定。
8月9日(金):携行荷物を防衛庁に寄託。
8月10日(土):0900目度途で成田空港の日本航空貴賓室「葵」(北ウィング3階)へ。この日は、お盆休みの初日にあたり、政府VIPの外遊ラッシュであったため、この部屋しか開いていなかった由。
この時点で、国際室から、サウディ・アラビア(以下、「サウディ」という。)では第二の首都ジェッダを訪問することになったと聞かされた。それまで、サウディ政府からはサウディ国内に我々が入ったら歓迎するとの意向しか示されず、一体政府首脳の誰がどこで会ってくれるのか分からなかったが、一安心する。(出発時点におけるスケジュールについては、資料5「出発時スケジュール」)
次官は、搭乗口を入ってから、売店でカメラ購入。
JAL403便搭乗。次官はファーストクラス、太田はエグゼクティブクラス。
15分ほど遅れて1020頃テークオフ。一回目の食事の後、映画「スリーメン・アンド・リトル・レディ(Three Men and Little Girl)」及び「モールからの風景」(日本未公開。ウッディ・アレン主演)を上映。その後、2回目の食事。
ほぼ予定通り、ロンドン時間の1425ロンドンヒースロー空港着陸。駐在武官の飯塚治1等海佐及び大使館の小高さんの出迎えを受ける。
アテニウムホテル(Atheneum Hotel)にチェックイン。部屋には、次官がVIPだからであろう、支配人名の歓迎レターが置いてあった。その後、次官の部屋で飯塚一佐とともに打ち合せを兼ねてアフタヌーンティー(ホテル側のサービス)。
1610ロンドン市内観光に出発。テートギャラリーでは、開催中のコンスタブル展にまず入った後、印象派の展示室とターナーの展示室を回る。テームズ河を対岸に渡り、反対岸の国会議事堂をながめ、再び河をわたってロンドン塔へ。
中には入らず、セントポール寺院及びウエストミンスター寺院経由でホテルへ戻る。
その夜は、同じ日に着いた吹田晃自治大臣兼国家公安委員長一行と一緒に北村汎(ヒロシ)駐英大使(元外務省北米局長、官房長。前駐カナダ大使)公邸での夕食会(和食)に招かれた。自治大臣の随行者は、森繁一自治省官房長、川田晃警察大学校国際捜査研修所長兼国際刑事警察機構(インターポール)副総裁(警視監)南佳則政務秘書官以下。大使館側は、大使以下、田中均参事官及び高橋邦夫1等書記官(次官と同郷、独身)。大使より、日本の英国への投資は、EC全体の40%に達しているが、昨年は、これが50%を越えた。このように英国は、サッチャリズムのもと、国運を日本に賭けているおもむきがある。先般、初めて英国で生産された日産の車(プリメーラ5ドア車)が日本へ輸出されることも当地で話題になっているとのお話あり。また、ソ連情勢に関し、ゴルバチョフとエリツィンは、一見対立しているように見えるが、実は、水面下では連携しているのだという話もされた。
8月11日(日):翌朝、0800に宿舎のホテルに太田の1988年の国防大学(Royal College of Defence Studies)留学時代の友人、アンソニー・J・クラッグ(Anthony J. Cragg)氏を迎え、次官と三人で朝食を共にした。氏は現在英国国防省の監理・監査担当局長(Director General, Management Audit)で、英国の失業率が大変高いというのに、軍縮のため、国防省の人員を25%カットしなければならないのだという。太田が、防衛庁の担当者として自衛官の募集で頭を悩ましていると言ったところ、なんとぜいたくな悩みであることかと切り返された。同氏のそのほかの発言要旨は以下の通り。
・ナポレオン戦争が終了した1815年から第一次世界大戦が始まる1914年までのほぼ100年間、欧州全体を巻き込むような戦争がなかった。(クリミア戦争は欧州の「縁辺」で起こったものだし、普仏戦争は、2国間の戦争で、しかも短期間で終結したので勘定には入れない。)冷戦が終わった今、今 後少なくとも100年は戦争がないことを強く期待している。
・しかし、NATOは容易に解消できない。ソ連情勢の動向が不透明であることはもとよりだが、第1及び第2次大戦の記憶がまだ生きている現在、仏独を再び争わせないスキームとして、ECと西欧同盟(WEU=Western European Union)だけではまだまだ心許ないからだ。
・イスラエルでは、同国が「占領」している領土に関し、アラブ諸国側に譲歩することに対し、国内に強力な反対派を抱えており、この点でイスラエル政府自身も分裂している。従って、中東和平会議が11月に開かれたとしても、和平の達成は困難であると見ている。
0945にホテルをチェックアウトし、大使館提供の車に飯塚1佐と同乗。国防大学前を通ってから、ハンプトンコート宮殿におもむいた。庭園から始めて宮殿の建物の中をゆっくり見物した後、ウィンザー城に向かった。同城の門を少しは入ってから引き返し、門のすぐ側(カタワラ)のキャッスルホテルのレストランで昼食。固く味気ないビフテキに3人とも悪戦苦闘する。太田からのイギリス料理にはなぜ味がないかの説明に次官は半信半疑の御様子。
1420ヒースロー空港着。大使館の高橋書記官、小高さんらが待ち受けていてくれる。中東行きであるためなのであろう、セキュリティチェックの厳しさは大変なもの。
エジプト航空MS778便に搭乗。ファーストクラスの次官の席に先客あり。
スチュワーデスは、平気で次官を他の席に座らせる。
1545、金持ちのぼんぼんとおぼしきアラブ民族衣装姿の一等客の青年2人の搭乗を待ちに待ち、45分遅れでテークオフ。飛行位置を、映写幕に映し出された地図の上にリアルタイムで表示する最新システムを搭載していたが、機中、アルコール飲料は一切提供されなかった。エジプトは、イスラム教諸国の中では戒律の厳しい方ではないと聞いていたので、奇異な感じがする。映画は「ゴースト・ダッド(Ghost Dad)」(日本未公開。主演ビル・コスビー)。なお、イヤホンで聞く音楽テープのソフトは、アラビア音楽特集を含め、すべてCBSソニー製だった。(後に搭乗したサウディアラビア航空及びガルフ航空も同様。)
カイロ空港には、2230着陸。大使館から山田中正大使(元国連局長、前ジュネーブ国連軍縮会議大使)、駐在武官の越村正朔(ショウサク)1等陸佐ほか、エジプト側から中央軍管区参謀長アブドーラ・アブドル・ハミド・スウィラム(Abdawla AbdelHamid Swilam)少將、砲兵学校エッサム・エルデイン・アンワール・モーゼン(Essam Eldin Anwar Mohsen)准將以下が出迎え。貴賓室で懇談後、カイロ市内へ向けて出発。水道管破裂による道路の冠水のため、大渋滞に巻き込まれた。道路を走るトラックの後ろにNISSANとかTOYOTAと書いたものが目立つが、越村1佐によると、日本車を持つことはステータス・シンボルになっているので、日本車ではないトラックにまで、日本車の名前を書くことが流行なのだという。
2330宿舎のラムセス・ヒルトン(Ramses Hilton)着。部屋には、日本人の係員名の日本語の歓迎レターが置いてあった。(後に宿泊したアブダビのホテルでも同様。)越村1佐より、大使館作成資料(資料6「エジプト情勢」、資料7「カイロ案内」)及び同1佐作成資料(資料8「エジプトの国防」、資料9「参謀長との会見用ご参考資料」)受領。太田は部屋で同1佐から、サウディ発の公信2通(資料10及び11)、アラブ首長国連邦(以下「ア首連」という。)発の公信1通(資料12)を見せられる。サウディからの公信については、太田の航空便に関し、エグゼクティブクラスがなければ、エコノミークラスでよい、ジェッダの日程については、特段希望はない旨、またア首連からの公信については、最終日の17日であろうと、ア首連総参謀長または副参謀長との会談をあくまで追求することとし、(従って、アポイントが取れた場合、フランクフルト立ち寄りは断念することとし、)正副参謀長いずれかとの会談のアポイントが取れるまで、フランクフルト行き便のキャンセルは見合わせるよう現地に連絡するように依頼。なお、同1佐より、太田が所在確認と面会を求めていた国防大学時代の友人モハメド・トーフィク・ザキ陸軍大佐(当時)について、エジプト国防省から何の回答も得られなかったと伝えられた。前にも米国留学時代の友人について、同様の依頼を自衛官の人から受けたことがあるが、その時もエジプト側はなしのつぶてだったという。セキュリティーに対する感覚の違いなのかもしれないが、それにしても残念なこと。
12日0030近くのナイル・ヒルトン(Nile Hilton)へおもむき、エジプシャン・ショー(Egyptian Shaw)鑑賞。着いた頃は、レバノン人の女性歌手が歌っていた。軽い食事をしながらお目あてのベリーダンスが始まるのを待つが、まずダンサーおかかえの楽団が入場し、音楽を奏で始めても御本人はなかなか現れない。
0145頃ようやく始まった。ルッシーという、エジプト一とされるダンサーとか。(人気の度合は、おかかえの楽団の人数の多さで推し量れるのだそうだ。)
1回目の休憩に入った0215頃会場を後にする。宿舎に戻ってからも、越村1佐と調整事項があったため、太田が寝たのは0400。
8月12日(月):眠い目をこすりながら0700行動開始。0820宿舎発。大使、越村1佐及び佐々山2等書記官が随行。途中時間が余ったため、スーク(市場)地区を車で回る。
0900から、参謀本部にて、中將サラー・M. アチヤ・ハラービ(Salah M.Attya Halabi)参謀総長との会談に臨んだ。(資料13「エジプト参謀総長との会見要録」)会談終了後、プレゼント交換。
(本日の会談、視察の際の通訳(英語)を務めた佐々山タクヤ(漢字不明)2等書記官は、太田の課に労働省から出向してきている田原君と愛媛県の高校同期。外務省入省。英国での留学を終え、6月にカイロに赴任したばかり。後で本人から聞いたところによると、通訳初体験の日であった由。道理で日本語から英語への通訳は良くできていたが、英語から日本語は、エジプトなまりの英語に慣れていないこと、エジプトを知らないこと、更には軍事用語を知らないことから誤訳が多かった。恐縮する佐々山君を太田がしきりに激励したことであった。)
0940から、1973年の第4次中東戦争におけるエジプトの「勝利」を記念し、エジプト国民精神の作興のために設けられたパノラマ館視察。少將アブデル・アテイーフ・マブルーク(Abdel Atif Mabrouk)国防省研究部長とパノラマ館長(名前不明)が案内。第4次中東戦争は、イスラエルはヨム・キップル戦争、エジプトは10月戦争と呼んでいる。この戦争を準備する過程でソ連との関係を切っていた(於1972年)ため、ソ連製兵器の部品の確保に苦労していた当時のサダト大統領を北朝鮮が支援して部品供給等の協力を行ったという話は比較的良く知られている。それどころか、大使から伺った話によれば、実は北朝鮮空軍のパイロットがエジプトのミグ戦闘機に乗り組んで戦争に参加していたということが最近明らかにされたという。当時エジプト空軍司令官であったムバラク現エジプト大統領は、このときの北朝鮮の協力を大変多としており、ためにエジプトと北朝鮮とは正式に国交があり、大使館を互いに設置しているのに、韓国に対しては、実務官僚等の反対にもかかわらず、いまだに通商代表部の設置しか認められていない由。
このパノラマ館の呼びものは、観客席が360度回転する巨大なディスプレーで、10月戦争の時のスエズ運河渡河作戦が我々の目の前でリアルに再現される。
北朝鮮を訪問したエジプト政府高官が朝鮮戦争のパノラマ館を見て感心したところ、北朝鮮側より、エジプトが同様のパノラマ館を作るのなら協力する旨の申し出があり、エジプトとしてこの好意を受けることにしたのだという。北朝鮮の技術援助は、観客席の駆動装置から、北朝鮮の画家の手になるディスプレー壁面の細密な戦争画に至るまでいたれり尽くせりであったようだ。テープによる解説放送は、なんと日本語で行われた。やや美文調だが、こなれた表現が縦横無尽に用いられていた。これもひょっとしたら北朝鮮製ではないかと思わせた。(資料14「パノラマ館パンフレット」)
次に1040から陸軍士官学校(Egyptian Military Academy)を見学。まず本館で陸軍少將サイード・アラーファ(Said Araffa)副校長と懇談(陸軍少將ムスターファ・カメル・モハメッド(MoustafaKamel Mohamed)校長は休暇中)。もっぱら、先方から日本の防大の入試制度、教育内容、学位授与の有無等の質問を受け、これに答える形で懇談が進行。
次いで大教室でブリーフィングを受ける。(資料15「エジプト士官学校について」)。また、基礎科学部門(Basic Science Branch)のコンピューター実習室及び物理学実習室、軍事科学部門(Military Science Branch)の英語ラボ、体育部門(Physical Section)の錬成ジムや固定式及び移動式の室内競技場を見学。体育では、柔道及び空手、それに韓国のテコンドーが正課に取り入れられているようだ。越村1佐によれば、エジプト軍が部隊ではなく陸軍士官学校を見せたのは、秘密保持の観点からではなく、単に陸軍士官学校の施設が部隊に比べて立派だからであろうとのこと。陸軍士官学校の中でも、居住区を見せないところをみると、そこは多分ひどいのではないかとのこと。防衛庁のCー130調査団がやってきたとき、カイロ空港(すなわちカイロ空軍基地)のBOQをCー130要員に使わせることを考え、視察希望を出したところ断わられたが、後日米軍に聞いたところ、トイレの状況等衛生状態がひどすぎるので、たとえ貸してくれるようでも、使わない方が賢明だと言われた由。
このほか、士官学校の体育部門の一環として敷地内に建設中の大スタジアムも見せられた。秋にはアジア大会形式のアフリカ大会がここで開かれるとので、これに間に合わせるべく工事を急いでいるとのこと。軍や軍の施設が、日本等に比し、このようにはるかに広い役割を果たしているのは、第3世界にはありがちなことなのであろう。
最後に、陸軍士官学校博物館を訪問。ここでプレゼントを交換。
次に1300からガラー将校クラブ(Galaa Officers Club)において、昼食会形式で参謀総長に次ぐ国防省ナンバー3の少將ホスニ・マハムード・ソリマン(Hosny Mahmoud Soliman)国防次官との会談が行われた。エジプト側の参加者は、このほか准將ファウアド・A. ハリム(Fouad A Halim)国防大臣室装備主任のほか、昨日空港に出迎えた將官2名。(うち、モーゼン准將は、エスコートオフィサーとして、本日の次官の公式日程に終始同行。)控えの間での懇談がなかなか終わらず、その後のピラミッド行きをひかえているだけに気が気ではない。(資料16「エジプト国防次官との懇談要旨」)いよいよ始まった将校クラブの料理はなかなかのものだった。日本大使館員によれば、カイロのどのレストランよりも腕利きのコックが居るのだそうだ。食事終了後プレゼント交換。
1600近くになって、ようやくカイロ郊外のギザのピラミッド群に向けて出発。途中で大使と別れ、越村1佐だけが随行。一番大きいクフ王のピラミッドの前でエジプトとイスラエルの戦跡研修旅行に来ている防大の和泉助教授等の一行に偶然出会う。その後、クフ、カフラー及びメンンカウラーの3大ピラミッドが一望できるギザの裏手の丘の上のポイントへ。最後にスフィンクスを見学。ホテルへの帰途、太田が少年時代(1955–59年。小学校1年–5年)を過ごしたナイル河のゲジラ中州のザマーレック高級住宅街を車で回った。
ザマーレックには、各国大使館が多数集まっているが、越村1佐は、どこの国の武官も大使館に形式的には属しているものの、事実上独立して活動しており、訓令を本国の国防省から直接受け取り、報告も国防省に対して直接行っていると話していた。
1730に宿舎をチェックアウトして、1800から大使公邸で夕食(和食)をいただいた。山田大使、越村1佐、佐々山書記官、中原雅男2等書記官のほか、2等陸佐和泉洋一郎防大助教授以下、陸上自衛隊富士学校普通科部の3等陸佐山口陽一郎レンジャー班長、同1等陸尉山本雅之戦史教養班員及び防衛大学校の3年生の佐藤裕史、和田伸一の両君の一行と同席。(大使夫人は、送迎時に玄関口に出てこられ、挨拶された。)
大使等の発言要旨は以下の通り。
・エジプトは、湾岸危機後、湾岸地域の出稼ぎ者からの送金が減ったこともあって、経済困難に直面している。(大使)
・エジプト人は、中東の中では珍しく大変穏和であり、かってサダト暗殺事件等はあったが、経済が苦境に陥ったぐらいでは、国情が騒然とするようなことはないのではないか。(大使)
・軍人はエリートであり、歴代の大統領も軍人出身だが、いずれも概ね身辺はきれいであり、国民の信頼を得ている。(大使)
・エジプト等第三世界の国では、武器の生産や輸出が悪いという発想はない。
日本が自ら武器輸出三原則を遵守するのは構わないが、そのような考え方を他国に及ぼそうとしたり、武器の生産や輸出状況と日本からのODAをリンクさせようとしたりすると思わぬあつれきを生ずるので注意が必要。(大使)
・カイロの日本大使館はビルの中のフロアにあり、緊急事態において、物資を蓄えたり、通信機器を設置する余積が全くない。これでは、在留邦人保護もままならないので、独立家屋に移転したいと前からお願いしてきているが、なかなか実現しない。次官からもお口添えを願いたい。(大使)
・エジプトでは、日本が域外国としては、湾岸戦争に一番金を出したのだから、日本こそこの戦争への最大の参加国であるという受け止め方をしているむきが多い。金しか出していないのだから戦争には参加していないという日本国内での論議はここでは通用しない。(大使)
・湾岸戦争勃発直前、当時のイラク駐在武官の白石義行1等陸佐(湾岸危機発生時に任地を離れており、イラクに再入国できなくなっていた。)と一緒にサウディに派遣された。これは、サウディ在留邦人が不安にかられているので、軍事専門
家の眼で戦災のリスクを評価し、適切な勧告をするためだった。私の結論は、下手に避難しない方がよいというものだった。じっとしていてイラクのロケット攻撃で被害を受ける確率は、交通事故に会うより小さい一方、避難路こそ絶好の攻撃目標になるからだ。(越村1佐)
・およそ一国の軍隊の強さは、経済力や科学技術力からなる総合国力以上にも以下にも成り得ない。エジプトは、数次にわたる中東戦争を通じ、イスラエルという先進国の軍隊の恐ろしさを骨身にしみて知った。今次湾岸戦争の悲劇は、イラクがこれまでまともな戦争としては、非先進国であるイランとの間のものしか経験していなかったところにある。(越村1佐)
1950に公邸を出発し、カイロ空港へ向かう。車中、越村1佐より、エジプトは、軍事情報の保全に異常に神経をとがらしているので、同1佐作成資料を含め、エジプトで得た軍事関係情報の取扱にはくれぐれも注意してほしいとの話あり。
空港での見送りは、大使以下、及びエジプト側から昨日出迎えてくれた將官2名以下。貴賓室での懇談要旨は以下の通り。
スウィラム少將:軍の病院のレントゲン機器を日本に援助してもらいたい。
大使:エジプト政府に供与することは可能。その先、軍病院で使われることになったとしても問題はない。
少將:陸軍士官学校を訪問されたが、同士官学校は、ヘリオポリス大学の商学部(School of Trade and Commerce)と提携し、同学部の教授が士官学校で教えている。將官クラスは、かってこのような幅広い教育を受けていないので、再教育を行っているが、なかなか再教育についていけないようだ。
ジェッダ行きのサウディアラビア航空SV302便のテークオフは2142。太田は、2階のエグゼクティブクラス。サウディアラビア航空のスチュワーデスは、みんな外国人とか。ジェッダ上空にさしかかると、無数のオレンジ色の街路灯が織りなす幾何学模様が見渡す限り続いており、その美しさに息を飲む。
ジェッダには2340着陸(カイロとの間に時差なし)。恩田宗(タカシ)在サウディアラビア大使(前外務省中近東アフリカ局長)、塩谷和(シオタニカナオ)ジェッダ総領事、浅子キヨシ(漢字不明)1等書記官(英語、アラビア語通訳)、金井泉壽(カナイセンジュ)領事(陸上自衛隊から派遣された警備官)、小林派遣員出迎え。サウディ側の出迎え者名不明。着いたところで、サウディ政府のご好意で、恩田大使一行ともども急遽迎賓館(Conference Palace)に泊まれることになったがどうするかと大使館員から問われ、一も二もなく、好意を受けることにした。
かねてからその可能性はあるとは聞いていたものの、こういうぎりぎりの時点で申し出があるとはと呆れる。その場で予約していたハイアット・リージェンシーをキャンセル。
なお、我々一行が飛行機を降りて案内された所は、王室用ターミナル(Royal Terminal)だったが、これも通常のターミナルへ案内される予定が突然変更になったものとか。同ターミナルの貴賓室にて休憩。煎っていない生コーヒー豆を使ったアラビアンコーヒーをふるまわれる。カルダモン入りだが、何とも奇妙な味。
0015迎賓館着。この迎賓館は、元は一流ホテル(インターコンチネンタル)であったところを、新しく建設されたファハド現国王のアッサラーム宮殿を見おろすことになるというので政府が買い上げたもの。(高層の広い館内は閑散としており、結局我々以外には2、3組しか客は見あたらなかった。)ただし、ご招待だとは言っても、チップまでは廃止されていないようで、トランクを部屋まで運んだボーイがチップを受け取るまで帰ろうとしないのには、大使館員も驚いていた。
次官の部屋で、大使以下とミーテイング。ア首連日程(資料17)手交さる。また、サウディにおける、14日の日程について、3つの案(資料18)を提示される。第3案に決定。
(続く)
1991年の政務次官随行中東訪問記(その1)
- 公開日: