太田述正コラム#13410(2023.4.8)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その28)>(2023.7.4公開)
「・・・五・一五事件発生の直後、新聞は号外などの形で事実関係を報道した。
犯人の氏名などの公表は規制されたが、在京新聞社は報道禁止に反対する旨を決議し、内務省に通知している。
他方で、地方紙には事件への批判を展開したものもあった。
『信濃毎日新聞」、・・・『福岡日日新聞」などはよく知られている。
<前者の>主筆<の>桐生悠々<(注92)>は1933年8月、社説「関東防空大演習を嗤う」で防空演習を無意味だと論じ、軍関係者の猛反発をかった。
(注92)桐生政次(1873~1941年)。旧加賀藩士の子。四高、東大法卒。「東京府の官吏、保険会社、出版社、下野新聞の主筆などを転々としたのち、1903年(明治36年)、大阪毎日新聞に学芸部員として入社するが満足な執筆の場を与えられず退社、1907年(明治40年)には大阪朝日新聞に転籍して、大朝通信部詰めという立場で東京朝日新聞社内で勤務、「べらんめえ」と題した匿名時事批評が評判となる。
1910年(明治43年)には信濃毎日新聞の主筆に就任した。1912年(大正元年)、明治天皇の大葬時に自殺した乃木希典陸軍大将をすぐさま批判した社説「陋習打破論――乃木将軍の殉死」を著し、反響を呼ぶ。1914年(大正3年)には、シーメンス事件に関して政友会を攻撃、信濃毎日新聞社長・小坂順造は政友会所属の衆議院議員であったため対立、退社を余儀なくされる。
同年には新愛知新聞の主筆として名古屋に赴任し、社説およびコラム「緩急車」で信毎時代と変わらぬ反権力・反政友会的言説を繰り広げるも、新愛知はこれまた政友会系新聞であったことと、同紙と憲政会系・名古屋新聞との激しい販売競争(皮肉にも両紙は太平洋戦争中の新聞統合で中日新聞を形成する)に疲れたこともあり退社する。1924年(大正13年)には第15回衆議院議員選挙に無所属で出馬するも落選、落選後は自ら日刊新聞を発行するも1年持たず廃刊負債だけが残り浪人生活を数年送る。
1928年(昭和3年)に、当時の信濃毎日新聞主筆・風見章が 衆議院議員選挙(第一回普選)に出馬すべく退社したため、悠々は同紙に主筆として復帰、再び反軍的な一連の社説を著す。もっとも悠々のこの時代の基本的な立場は、マルクシズム批判であり、これは前任者風見のもとで先鋭左傾化した信濃毎日の社内にも、昭和恐慌で疲弊しつつあった長野県の読者層にも好意的に受け止められてはいなかった。
1933年(昭和8年)8月11日、東京市を中心とした関東一帯で8月9日に行われた第1回関東地方防空大演習を批判して、悠々は社説「関東防空大演習を嗤ふ」を発表する。同文中で悠々は、敵機の空襲があったならば木造家屋の多い東京は焦土化すること、被害規模は関東大震災に及ぶであろうこと、空襲は何度も繰り返されるであろうこと、灯火管制は暗視装置や測位システム、無人航空機などの近代技術の前に意味がないばかりか、パニックを惹起し有害であること等、12年後の日本各都市の惨状をかなり正確に予言した上で、「だから、敵機を関東の空に、帝都の空に迎へ撃つといふことは、我軍の敗北そのものである」「要するに、航空戦は…空撃したものの勝であり空撃されたものの負である」とした。この言説は陸軍の怒りを買い、長野県の在郷軍人で構成された信州郷軍同志会が『信濃毎日新聞』の不買運動を展開したため、悠々は同9月に再び信濃毎日の退社を強いられた。だが論旨は「水を漏らさぬ防禦方法を講じ、敵機をして、断じて我領土に入らしめてはならない。」「空撃に先だって、これを撃退すること、これが防空戦の第一義でなくてはならない。」と重ねて書いているように今日にも通ずる至極まっとうなものであった。・・・
1941年(昭和16年)9月10日、太平洋戦争開戦を3ヶ月後にひかえて桐生悠々は喉頭癌のため68歳で逝去。その直前、死期を悟った悠々は『他山の石』廃刊の挨拶を作成したが、これもまた数年後の日本の敗戦に対する正確な予言となっていた。<↓>・・・
(前略)さて小生『他山の石』を発行して以来ここに八個年超民族的超国家的に全人類の康福を祈願して孤軍奮闘又悪戦苦闘を重ねつゝ今日に到候が(中略)・・・やがてこの世を去らねばならぬ危機に到達致居候故、小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつゝある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候も、ただ小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候。・・・」」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%90%E7%94%9F%E6%82%A0%E3%80%85
⇒桐生は、軍事にも詳しい、バランス感覚に優れた常識人だった、と感心させられます。(太田)
長野県下の在郷軍人関係者が不買運動を展開したことで、桐生は・・・退社に追い込まれる。
他方で福岡では、<件の>社説掲載の当日に、久留米第12師団<・・師団長杉山元!(太田)・・>から記事の取り消しと謝罪の要求がきた。
『福岡日日新聞」には、連日のように脅迫状が舞い込み、在郷軍人会も不買運動に乗り出したともいう。・・・
だが『福岡日日新聞」の首脳部は結束して・・・主筆<の>・・・菊竹・・・六鼓<(注93)>・・・を擁護し、菊竹は1935年に副社長へ就任している・・・。」(179、181)
(注93)菊竹淳(すなお)(1880~1937年)。「福岡県生葉郡福益村(現・うきは市吉井町)・・・<の>素封家・・・に生まれた。・・・東京専門学校(現・早稲田大学)英語政治科<卒。>・・・自由党系紙であった福岡日日新聞社(現在の西日本新聞社の前身)に入社した。福岡日日新聞社は九州では最有力の新聞社であり、早くから自由民権を唱え、憲政を重んじていた。まもなく11歳の踏切番の少女山崎お栄が自分の命と引き換えに通行人の命を救った事故に関する論説「理想の死」で注目を浴び・・・1911年31歳で編集局長となり、のちに主筆となった。・・・
論説「理想の死」では読者から賞賛を浴びた六鼓であるが、同年のポーツマス条約締結では、世論、新聞界がこぞって条約反対に沸き返る中、条約賛成の論説を発表して各方面からの批判の的となったこともあり、廃娼の論説を張ったときにはそれを資金源とする暴力団とも対立したこともあった。 反軍の論説で知られる菊竹であるが、大正デモクラシーのなかで軍が弱い立場にいるときには、逆に軍擁護の論説も張っていた。論説「小学校における飲酒」では小学校校内での酒宴で女性教師は男性教師に酌をするのが当然、酔って羽目をはずすのは当たり前と言った現代ではもちろん、六鼓の時代でも首を傾げざるを得ない論調もあり、六鼓は良くも悪くも世論や強きものには屈せず、反骨を貫いた新聞人であった。・・・
結核のため死去。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E7%AB%B9%E5%85%AD%E9%BC%93
⇒菊竹の出身地は、旧久留米藩(有馬氏)領であり、幕末維新時の(最後の)藩主の有馬頼咸(よりしげ)の正室は有栖川宮韶仁親王の娘(で幟仁親王の異母妹)の韶子、弟は亀井茲監で、家臣に真木和泉守がおり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E9%A0%BC%E5%92%B8
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E9%9F%B6%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E5%B9%9F%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
菊竹には、もともと秀吉流日蓮主義への親和性があった、と考えられます。
杉山元は、軍事にも詳しい常識人の桐生や反骨の菊竹と腹を割って話をしておれば説得できていたでしょうが、杉山構想を秘匿しなければならなかった以上は、脅すことしか選択肢はなかったでしょうね。(太田)
(続く)