太田述正コラム#2305(2008.1.17)
<ガンジー・チャーチル・ホロコースト(その3)>(2008.7.25公開)
チャーチルのこのバルフォア宣言に対する支持は掛け値無しのものでした。
爾後彼は、第一次世界大戦の時に英国の国益に則り、英国がユダヤ人のパレスティナ「復帰」を支持した以上、戦争が終わったからといってこの方針を撤回することは恥ずべきことであると訴え続けるのです。
1921年にチャーチルは植民相に就任する巡り合わせとなり、バルフォア宣言の履行に精力を注ぎます。
翌1922年、彼はパレスティナ初代総督(high commissioner)とアラビアのロレンス(Lawrence of Arabia=Thomas Edward Lawrence。1888~1935年)を伴ってパレスティアを初めて視察します。現地でアラブ人とユダヤ人の代表者達に向かってチャーチルは、アラブ人がユダヤ人の移住に反対するのは人種差別であり、ユダヤ人は繁栄・成長・経済開発をもたらしたのであってアラブ住民もこれを享受している、と述べています(注)。
(注)同時にチャーチルはパレスティナのアラブ人にも配慮し、トランスヨルダン(現在のヨルダン)をパレスティナから分離し、これをアラブ人達の将来の国にするという方針を打ち出している。
チャーチルは本心では無制限にユダヤ人のパレスティナ定着を認めたかったのですが、それには反対が多く、その年に出された彼自身の植民省の白書では、抑制されたパレスティナ定着を打ち出さざるを得ませんでした。それでもこの白書は、その後の14年間にわたって30万人のユダヤ人がパレスティナに定住する道を切り開いたのです。
この白書は、ユダヤ人がその受けた艱難によってではなく、歴史的権利に基づいてパレスティナに移住できると謳い、ユダヤ人がパレスティナに将来政府を構えることさえ可能であると記していました。
その後、チャーチルはナチスドイツに対する戦いにおいてリーダーシップを発揮するとともに、対独戦中に何千ものホロコースト生存者達をパレスティナに受け入れるべく、英植民地官憲のサボタージュを乗り越えるために多大な努力を傾注しました。
この間、シオニストの過激派はパレスティナの英国官憲や兵士に対するテロを行い、1944年には在中東相(Minister Resident in the Middle East。中東における英国の最高責任者)でありチャーチルの親友の一人でもあったカイロのモイン卿(Lord Moyne=Walter Edward Guinness。1880~1944年)が暗殺されたのですが、チャーチルの姿勢に変化はありませんでした。
1946年にはエルサレムのダビデ王ホテルの英国の行政機関が爆弾を見舞われ、91人もの犠牲者が出たにもかかわらず、野にあったチャーチルは1948年には(建国宣言を発した)イスラエルをただちに承認するよう、(アラブ諸国の反応を気にして承認を逡巡していた)英国の労働党政府の尻を叩きましたし、1951年にはエジプトがスエズ運河のイスラエル艦船の通行を禁止したところ、これを非難しました。
チャーチルはまさにユダヤ人の終生の友と形容するにふさわしい人物だったのです。
しかし、にもかかわらず、バルフォア宣言を発したバルフォア卿や、当時の英国王のジョージ5世(1865~1936年。在位1910~36年)に比べて、チャーチルのイスラエル建国への貢献が知られていないのはどうしてなのでしょうか。
それは、チャーチルのようなユダヤ人大好き人間は、英国のエリート中に蔓延する反ユダヤ人感情に配意し、慎重な言動に努めなければならなかったからです。
例えば、チャーチルの前任の首相であったチェンバレン(Neville Chamberlain。1869~1940年)は、ユダヤ人にとって益々厳しくなりつつあった状況下で、アラブ人感情に配慮してユダヤ人のパレスティナ移住枠を5年間で75,000人に制限した方針を決定した1939年に、私信の中で、ナチスのユダヤ人迫害について、「ユダヤ人は好かれる人々ではない。私自身連中がどうなろうと知ったことではない。」と記しています。
また、チャーチルは英陸海空参謀長会議で「中東から帰国する50人の将校のうち1人くらいしかユダヤ人について好意的な発言を行わない」とこぼしていますし、第二次世界大戦中、チャーチル内閣で外相を務めたイーデン(Anthony Eden。1897~1977年)はパレスティナ問題に関し、アラブ人は大好きでユダヤ人は憎んでいるという点でテコでも動かなかったと伝えられています。
こういうわけで、例えばチャーチルは1914年に第一次世界大戦が始まった直後に保守党のロイド・ジョージ(David Lloyd George。1863~1945年)が自由党と連立内閣を組もうとしていた時、ロイド・ジョージに書簡を送り、自由党枠7名中3名もユダヤ人を入れると議論が起きるので止めた方がよいと申し入れていれることによって自らを韜晦する必要があったのです。
というのも、その頃、37歳の内相であったチャーチルは、シオニズムの指導者であったヘルツェル(Theodor Herzl。1860~1904年)の息子のオーストリア国籍のハンス(Hans)が敵性市民扱いをされようとしていたのを、特別に英国に帰化を認めることで救ったりしていたからです。
ホロコーストに対しても、チャーチルは綱渡り的対応を行わなければなりませんでした。
(続く)
ガンジー・チャーチル・ホロコースト(その3)
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