太田述正コラム#13416(2023.4.11)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その31)>(2023.7.7公開)
「・・・神兵隊事件検挙の約2週間後、五・一五事件の公判が始まった。
すでに6月28日に血盟団事件の公判が始まっており、7月24日に海軍側、翌25日に陸軍側の公判が開始された。
海軍側は横須賀鎮守府、陸軍側は青山の第一師団の軍法会議法廷で開廷され、判士長(裁判長にあたる)には、高須四郎<(注105)>海軍大佐、西村琢磨<(注106)>陸軍砲兵中佐がそれぞれ就いた。・・・
(注105)1884~1944年。海兵35期(172名中10位)、海大17期。「茨城県(後の稲敷郡桜川村、現在の稲敷市)に生まれる。・・・
在<伊>大使館付武官補佐官・・・在<英>大使館付武官。・・・軍令部出仕兼海軍省出仕として、・・・五・一五・・・事件の海軍側関係者を裁く軍法会議の判士長を務めた。・・・
1937年、日中戦争勃発。第一航空戦隊司令官として上海地区で陸戦隊を支援する。のちには駐満海軍部の最後の司令官として、在地海軍兵力と満洲帝国海上部隊を統一指揮した。
1938年(昭和13年)11月15日、海軍中将に昇進、海軍大学校校長に任命。
1939年(昭和14年)9月29日、第五艦隊司令長官。南支方面の封鎖作戦を担当。11月15日、第二遣支艦隊司令長官。 北部仏印進駐の際は、平和進駐方針を無視した富永恭次らの行動に反発し、護衛艦艇を引揚げる強硬手段をとった。
1940年11月15日、第四艦隊長官(内南洋担当)に任命。・・・
日独伊三国・・・同盟や日米開戦に反対<。>・・・
1941年(昭和16年)6月17日、勲一等瑞宝章受章。従来連合艦隊司令部が兼任していた第一艦隊司令部の独立に伴い、8月11日、第一艦隊司令長官。12月、太平洋戦争開戦。第一艦隊は戦場に恵まれず、「呉艦隊」「柱島艦隊」と揶揄された。・・・
1942年(昭和17年)9月15日、南西方面艦隊司令長官。兼第二南遣艦隊司令長官。
1943年(昭和18年)9月20日、兼第十三航空艦隊司令長官。
1944年3月1日、海軍大将に昇進。 1944年4月2日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将が行方不明になる事件(海軍乙事件)が起こり、次席指揮官である南西方面艦隊司令長官の高須が連合艦隊の指揮を取ることが発令された。高須は、敵の作戦目的を西部「ニューギニア」に対し上陸を企図している公算大と推察しており、4月12日、連合艦隊電令作第四六号で「Z一作戦要領」を発令し、西部ニューギニア北岸方面を警戒した。高須は従来の担当地域を重視したままで、マリアナ、カロリンに配備を進めていた基地航空兵力の大半を西部ニューギニア方面に移した。大本営は、中部太平洋方面も警戒するため、マリアナ兵力を南方へ移動させるのは反対だったが、高須は、連合艦隊指揮官としての所信において兵力を移動させた。練度や機材の悪化から移動だけで兵力を損耗し、到着した飛行機も故障や飛行場の設備不備のため、半数は使用できず、中部太平洋航空兵力は手薄になった。5月3日、豊田副武大将が連合艦隊司令長官に親補され、高須から連合艦隊の指揮権が移った。 1944年6月18日、軍事参議官に就任。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%A0%88%E5%9B%9B%E9%83%8E
(注106)1889~1951年。幼年学校、陸士22期、陸大32期。「福岡県出身。・・・軍務局勤務が長く、1933年に五・一五事件の軍法会議判士長を務める。1940年に印度支那派遣軍司令官として仏印に進駐、・・・12月2日陸軍中将<に昇進。>・・・1941年には近衛師団長としてマレー作戦に参加。1942年の予備役編入後も陸軍司政長官としてビルマ・シャン州政庁長官などを務めた。
1947年に英軍裁判でシンガポール華僑粛清事件・・・で終身刑の判決を受け<た後>・・・、1950年に濠軍裁判でパリットスロン事件の責任を問われ、1951年濠軍裁判で死刑判決を受け、マヌス島で刑死。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%9D%91%E7%90%A2%E7%A3%A8
’<マレー半島の西南端近くの>The Parit Sulong Massacre was a Japanese war crime committed by members of the Imperial Japanese Army on 22 January 1942 in the village of Parit Sulong, British Malaya. Soldiers of the Imperial Guards Division summarily executed approximately 150 wounded Australian and Indian prisoners of war who had surrendered.’
https://en.wikipedia.org/wiki/Parit_Sulong_Massacre
初日の公判ののち、陸軍の西村琢磨判士長は、青年たちの供述に感激し、控室に戻るなり巨体を震わせて泣いたという。
弁護人も、新聞記者も同様の心情にとらわれ、被告たちの供述に感激した。
検察官の匂坂春平<(注107)>(第一師団法務部長)も、被告たちの心情に理解を示した。」(185、188)
(注107)さきさかしゅんぺい(1883~1953年)。「明治法律學校(現在の明治大学)を卒業し、司法官試補となる。・・・五・一五事件、二・二六事件に関する軍法会議において主席検察官を務めた人物として知られる。・・・最終階級は陸軍法務中将。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%82%E5%9D%82%E6%98%A5%E5%B9%B3
⇒西村琢磨は陸大で橋本欣五郎と同期であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8D%92%E6%A5%AD%E7%94%9F%E4%B8%80%E8%A6%A7
橋本の推薦を受け、第12師団長の杉山元が、自分の後任次官の小磯国昭
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98%E7%AD%89%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
に対し、西村の判士長起用を「指示」し、西村に対して小磯から判決の方向性について言い含めさせたのではないでしょうか。(太田)
(続く)