太田述正コラム#2309(2008.1.19)
<ガンジー・チャーチル・ホロコースト(特別編)>(2008.7.27公開)
1 始めに
ギルバートは、アラビアのロレンスについても、これまでのイメージは間違っていると指摘しています。
2 アラビアのロレンスのイメージ
最初に、これまでのアラビアのロレンス像の典型を一つご紹介しましょう。
ロレンスは、1888年に準男爵の父親とその愛人の2番目の子供として北ウェールズで生まれます(
http://en.wikipedia.org/wiki/T._E._Lawrence
。1月19日アクセス)。
「ロレンスは子供の頃から考古学が大好きでした。1910年にオックスフォードを優等の成績で卒業した後、彼は大英博物館のイラク(当時はメソポタミアと言った)発掘事業に従事する。
1914年にドイツとの戦争が勃発すると、ロレンスはロンドンの英軍参謀本部の地理諜報部に短期間勤務した後、カイロの軍事諜報部に移る。1916年にファイサル(FeisalまたはFaisal)に率いらてアラブ人達がトルコ帝国に反旗を翻すと(注1)、ロレンスはメッカに視察のため派遣され、成り行きでアラブ叛乱部隊への英連絡将校になる(注2)。
(注1)ファイサルはメッカ太守フセイン(Sherif Hussein of Mecca)の息子。この叛乱を企み唆したのは英外務省アラブ局(Arab Bureau of Britain’s Foreign Office)だ(ウィキペディア上掲)。
(注2)この立場で、ロレンスは英・アラブ叛乱部隊のアカバ(Akaba)攻略作戦や、ダマスカス攻略作戦等に関与し、ことごとく成功させる。
・・戦後、ロレンスはパリ平和会議でファイサルの代表団の一員(実質的には英国代表団の一員)となる。彼の努力にもかかわらず、シリア、パレスティナとイラクはフランスと英国の委任統治領となる。ロレンスは疲れ果て意気消沈してイギリスに戻る。
イラクを植民地支配しようとした英国に対し1920年の末に叛乱が起こると、ウィンストン・チャーチルは英植民相として打開策を見出すべく、<しぶる>ロレンスを説得して植民省中東部に勤務させ、彼を自分の顧問にする。1922年の夏頃には、ロレンスの助力もあって、チャーチルは事態を解決するのに成功する。」(
http://www.lucidcafe.com/library/95aug/lawrence.html
。1月19日アクセス)
ロレンスが、写真を撮る時に好んでアラブの衣服を纏ったことやアラブの習慣を身につけていたことはよく知られています。
1962年に封切られたデイビッド・リーン(David Lean)監督の映画「アラビアのロレンス」における、ピーター・オトゥール(Peter O’Toole) 扮するロレンスは、まさにこのようなイメージに沿ったものでした。
(以上、典拠省略。)
3 アラビアのロレンスの実像
しかし、ギルバートによると、ロレンスもまた、チャーチル同様、正真正銘のシオニストだったのです。
ロレンスはチャーチルに仕えていた1921年、チャーチルとともにカイロ会議に出席しました。この会議でファイサルにはイラクの王位が与えられ、その弟のアブドラ(Abdullah)にはトランスヨルダンの首長の座が与えられた(コラム#55)のですが、ロレンスは当時、アブドラの役割は、反シオニズムの輩に目を光らせ、(現在の)ヨルダンからユダヤ人の故郷・・地中海からヨルダンまでの全地域・・に連中が侵入するのを防止することだ、と備忘録に記しています。
また、シオニズムの指導者のワイズマン(英国籍のユダヤ人)に対する懐疑論者であったエルサレム大司教に対し、ロレンスは、ワイズマンは「偉大な人物であり、あなたや私なんて、彼の靴を磨くにも値しない存在だ」と述べています。
それどころかロレンスは、「ユダヤ人の主権国家がこの地域に存在することによってのみ、アラブ人達は自分達の尻を拭くことができるのだ(make anything of themselves)」とまで記しています。
(以上、
http://www.jpost.com/servlet/Satellite?cid=1171894488324&pagename=JPost%2FJPArticle%2FShowFull、
http://news.independent.co.uk/world/middle_east/article2300412.ece
(どちらも1月16日アクセス)による。)
なお、ワイズマン自身、ロレンスがシオニズムを大いに助けてくれたと記しているところです(
http://books.guardian.co.uk/review/story/0,,2242991,00.html
。1月19日アクセス)。
これ以降のロレンスの生涯もまことにドラマティックなのですが、省略します。
3 終わりに
チャーチルやロレンスがすこぶる付きのユダヤ人贔屓であったことがギルバートによって明らかにされたわけですが、イギリスはそもそも、地理的意味における欧州において、昔から最もユダヤ人に対して寛容な国であったことを忘れてはなりません。(コラム#478~480参照)
そういう国であったからこそ、ユダヤ人贔屓であるにもかかわらず、チャーチルは首相になれ、ロレンスは英雄になれたのです。
それにしてもこういうコラムを書いていると、私が少年期を過ごしたカイロの記憶が懐かしく蘇ってきます。
ガンジー・チャーチル・ホロコースト(特別編)
- 公開日: