太田述正コラム#2696(2008.7.29)
<皆さんとディスカッション(続x206)>
<権兵衛>
 コラム#2317「世界帝国とその寛容性・包摂性(その1)」を読みました。
>移民の受け入れとか外国人への地方参政権の付与と聞いただけで、相変わらず拒否反応を示す日本人が少なくないこともあり
 問題のすり替え。
 間違った歴史認識に基づく反日教育を受けて来た外国人(特に中国人や韓国朝鮮人)を大量に移民として受け入れる事や、同様に日本の伝統文化を批判し破壊しようとしている在日韓国朝鮮人への参政権付与に反対しているのだ。
>史上出現した大帝国であるペルシャ、ローマ、唐、モンゴル、オランダ、英国、米国には共通点がある。
 大帝国を崇めるのは権力者サイドの発想。
 一般国民にとって重要なのは自由と安全と衣食住に不足しない事だ。
>寛容性(tolerance)ないし包摂性(inclusiveness)だ。
 機械製綿織物を売りつけてインドの伝統的綿織物業を破壊し、中国にアヘンを売りつける為にアヘン戦争を起こしたイギリスの「寛容性・包摂性」ねえ・・・。
 それは「手段」に過ぎないし、又そう認識されている。
>モンゴルは残虐だったが、
Wikipediaより
文永の役
 1274年10月5日に対馬、10月14日に壱岐を襲撃し、平戸鷹島の松浦党の本拠を全滅させ、壱岐守護代の平景隆を自害に追い込んだ。さらに『新元史』によれば、この時民衆を殺戮し、生き残った者の手の平に穴を開け、そこに革紐を通して船壁に吊るし見せしめにしたという。また元の将軍がこのときに捕虜とした子供男女200人を高麗王と王妃に献上したという記録が、高麗側に残っている。
 なんと寛容で包摂的で残虐な事よ!
<太田>
 他人の著作の内容の紹介に係る部分については、必ずしも私の見解というわけではありませんよ。
 とにかく、公開を始めたこのシリーズの続きを読んでください。
 また、お時間が許せば、 TV座談会の【在日外国人問題と移民政策- Part1】 日本よ、今...闘論!倒論! 討論!
http://jp.youtube.com/ohtanobumasa
もご覧あれ。
<MS>
 「植民地時代に関する文献」の追記事項です。
≫当方の認識では、翻訳というものは訳者の見識・思想に影響を受けるのはもちろん、時のアカデミズムの傾向や制度的拘束、心理学的な反応にも影響されるものと捉えています。≪(コラム#2694。海驢)
 心理的な反応に関しては、「植民地朝鮮の開発と民衆」にも翻訳者の心理の影響をうけたと思われる箇所が散見されます。例えば先日引用した、
 『したがって朝鮮人の場合は学歴が等しくても、平均2.25年間(-0.081/0.036)の経歴を日本人より長く積めば民族差から発生する昇進上の差別を払拭することができ、0.47年間(-0.081/0.174)の高等技術教育をさらに受ければ民族差から発生する昇進確立上の不利益を克服することができた。まさにこの点で当時の朝鮮は学歴主体の社会であったと考えてもよいだろう。』
の『等しくても』という部分は私には『等しい場合』でないと、ロジックがすんなり通らないように感じます。翻訳が下手なのか、作者の思い入れがそうさせているかはわかりませんが。
 しかし、今のところ、私の見解は、「微妙なニュアンスの操作によって読み手の心理を誘導しようということはされているのかもしれないが、書いている内容そのものが変化するというほどの歪曲は翻訳上のテクニックでは難しい。」ということです。
 この点に関してはどう思われますか?
≫例えば、日本における思想・哲学分野の翻訳には、訳者の力量を超える部分で「逐語訳」という拘束がかかっており、本来の意味を理解することを阻害し、それを以て権威主義の助長・再生産に繋がった可能性も指摘されています。
※参考:「輸入学問の功罪」 鈴木直著 ちくま新書 平成19年刊≪(コラム#2694。海驢)
 上記は「アカデミズムの傾向や制度的拘束」のことをおっしゃているのだとおもうのですが、イデオロギーが翻訳に影響を与えるというのとは別の話ですよね。
ただ抽象度や厳密性が高くなるほど翻訳におけるルールの設定自体が難しいということは言えると思います。
≫また、訳者が文を変えなかった場合でも、もともとあった部分を敢えて翻訳せず、原著のニュアンスや内容を読み取れなくするというワザもあります。(中略)話が長くなりましたが、疑り深くなるには十分な情報だと思われませんか?(笑)≫(同上)
 確かに編集による訳者や出版社の意図的な操作という問題はあるようですね。
 しかし、敢えて翻訳をさけたということは、翻訳によって内容を歪曲するのは、限界があるということだと思います。
 少し話は変わりますが、上記のようなことが堂々とまかり通っていることを考えますと、訳者とともに出版社も重要ですね。
 例えば「植民地朝鮮…」の出版社である明石書店は、
 『日米安保闘争の学生運動にルーツを置き、「出版活動こそ、反差別の思想と文化を創りだす運動の砦でなければならない」との信念のもとで活動している。』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E6%9B%B8%E5%BA%97
http://www.akashi.co.jp/home.htm
 ホームページを見る限り堂々と会社の理念を主張しているので、岩波書店のような卑怯なまねはしていないと期待します。
≫ >>(韓国では、「朝鮮戦争は日本のせいで起こった」などということが普通に言われているところがまた恐ろしいところですが・・・)。
 (中略)
>2割や13.5%を多いとみるか、少ないとみるかですが・・・
>以上、ご参考まで。≪(同上)
 どうもありがとうございます。ご紹介の
http://sankei.jp.msn.com/world/korea/080624/kor0806241741002-n1.htm
 『調査によると「朝鮮戦争を引き起こした国」として北朝鮮を挙げた正しい回答は48.7%に過ぎず、次いで、誤った答えとして日本13.5%、米国13.4%、ロシア10.9%などとなっている。』
で、中国が入っていない(5%未満)のが非常に不思議ですね。
 いったいどういう教育をしているのだろうかと不思議に思い、『韓国の高校歴史教科書(三橋広夫訳、明石書店)』を買ってしまいました。
 というわけで韓国の歴史教科書に関して何か質問ないですか?
<遠江人>
 –典拠についてのまとめ–
ここ最近の掲示板上での典拠をめぐる議論で、典拠の必要性についての考えを何回か投稿させていただきましたが、せっかくですので(駄文で恐縮ですが)以下にまとめてみました。
 それと、典拠についての海驢さんへの返信の投稿を読み返してみると、肝心な記述がかなり抜けていました。これでは原理主義と言われてもしょうがないです。
 海驢さん、申し訳ありませんでした。
 論考の中において、もしくは議論をする上で、情報や事例を挙げる際には、一般的な普遍性に耐えうる事例や原則であるか、もしくは広範に知れ渡っている(もしくは当事者たちが了解している)情報以外は、基本的に根拠となる情報源を示す必要があります。でなければ、その情報や事例は信頼が置けるのか普遍性があるのかといったことを検証することができませんし、真偽不明なことに対してはまともな反論をすることができないからです。
 ただし、典拠の必要のない感想やちょっとした議論、雑談等であれば、もちろんいちいち典拠を示す必要はありません。政治や社会問題等の公的な問題について、もしくは厳格な検証が必要な(学術的等の)命題について、論考を述べる、もしくは議論をする上では、基本的には、「典拠を示す必要があるところには典拠を示す必要がある」ということです。
 ところで、個人の考えや意見、および一般化できていない(一般化するには情報量が足りないもしくは不明確な)情報等を、個人が勝手に(無意識含む)一般化して典拠のように扱ったとしたら、どういうことになるでしょうか。それを元にして個人の論考を導き出し、更にその論考を一般化して典拠のように用いて・・・と繰り返していくと、妄想がとめどなくなってしまう危険性があります。
– 補足
 ある程度世間に知られている情報や事例で、典拠を示すべきか示さなくてもいいのかの線引きが微妙な場合があると思います。しかし典拠を示すことの意義を理解していれば、その線引きを大きく見誤ることは無いように思います。少なくとも太田コラム読者が集まる掲示板なら典拠を提示するしないの線引きは個人個人でだいたい分かるのではないでしょうか。典拠が無くて微妙なところはその都度質問すればいいと思います。
<太田>
 遠江人さん、いつもご貢献ありがとうございます。
 話は変わるのですが、9月の最初の週に使わせていただくという含みで、私のアングロサクソン論の総合的索引を兼ねるコラムをご執筆願えないでしょうか。
 一般読者が重宝すると思います。
 とりあえずは、欧州論や米国論にまで手を広げなくて結構ですので・・。
<雅>
今、世間一般の方々(特にテレビコメンテーター)が語る中で、「戦後、戦後」という言葉をよく聞きます。
 現実は、江戸~明治~大正~昭和初期という連続性の中で国が発展し諸制度が変わって今日に至っています。
 なぜ?テレビの方々は、「戦後」で区切るのですか?どなたか教えていただければ幸いです。
<太田>
 様々なお答えがありうると思いますが、私は、将来の歴史家が、日本が軍備を放棄し、米国の占領下、ないし保護国であり続けた異常な時代に「戦後」という名称を付したとしても決して驚かないでしょう。
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太田述正コラム#2697(2008.7.29)
<新著・追加執筆分(その2)>
→非公開